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『アンネの日記 完全版』

アンネ・フランク『アンネの日記 完全版』(文藝春秋 1994)を読む。
オランダのアムステルダム市内の倉庫の隠れ家で、ナチスに怯えながら生活したある少女の日記である。1942年から1944年までの2年間、アンネフランクは3家族8人での潜伏生活を送っている。但しアンネ自身が「他のユダヤ人に比べたら、天国にいるようなものだと思います」と述べているように、決して暗く孤独でひもじい生活を送っていたわけではない。ナチスに連行されるまで図書館で本を借り、通信教育で勉強を続け、ラジオで戦況を知り、誕生日パーティーも盛大に行なっている。また時折自転車の話も出てくるのは、いかにも現在でも変わらないアムステルダムでの暮らしぶりである。「完全版」なので、「普及版」にはなかった肉親への愚痴や恋愛、心身の成長などが赤裸々に語られている。
アンネはそうした鬱屈とした生活を送る中で、次のように述べている。

 わたしは思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家だけにあるのではありません。そうなんです。責任は名もない一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら、世界じゅうのひとびとはとうに立ち上がって、革命を起こしていたでしょうから。もともと人間には破壊本能が、殺戮の本能があります。殺したい、暴力をふるいたいという本能があります。ですから、全人類がひとりの例外もなく心を入れかえるまでは、けっして戦争の絶えることはなく、それまでに築かれ、培われ、育まれてきたものは、ことごとく打ち倒され、傷つけられ、破壊されて、すべては一から新規まきなおしに始めなくちゃならないでしょう。

この『アンネの日記』は戦後に出版され、ナチスの残酷さとユダヤ人の受難の歴史を記した本として世界的ベストセラーとなった。但し、被害者の側面だけが強調されると、オランダの植民地支配の歴史やイスラエル建国に伴う侵略戦争といった加害者側の問題が隠れてしまう。アンネはそうした点に気づいていたのではないか。

訳者の深町眞理子さんは次のように述べる。著者に対する賛辞や謝辞で埋め尽くされがちな「あとがき」が多い中で、大変尖った素晴らしい解説である。

 訳者がこの「あとがき」を書いている、そのわずか数日前にも、イスラム教徒にとってきわめて重要な断食月のさなか、礼拝中のイスラム系住民にユダヤ人入植者が銃を乱射、多数を殺傷するという事件が起きています。このことを知って、過去にあれだけ迫害され、被害者として苦しんできたはずのユダヤ人が、なぜ? と割り切れない思いを持った人もすくなくないでしょう。いや、それを言うなら、第二次大戦後にイスラエルという国を建国したときすでに、それによって父祖代々住み慣れた土地を追われた先住パレスチナ人にとっては、ユダヤ人は“加害者”となったわけであり、要するに、加害者か被害者か、善か悪か、正義か不正義か、といった色分けではけっして解決しない問題がここには横たわっているのです。

(中略)『アンネの日記』は長らくユダヤ人迫害についての教科書として、人種差別反対のためのバイブルとして、多くの人に読みつがれてきました。したがって、人びとに悲劇の実態を伝えるための役割は十二分に果たしてきたわけですが、これからは、そういう一面的なとらえかただけでは、やはり限界があるように思います。

『君の膵臓を食べたい』

春日部イオンで、住野よる原作、月川翔監督『君の膵臓を食べたい』(2017 東宝)を観た。
話題になっている作品であるが、おじさん一人での鑑賞も何なので、娘を連れて観に行った。
助かる見込みのない病に健気に明るく振る舞う美少女と友達もいない暗い図書委員の男子生徒の恋を描く。所々つながりの不自然な場面が出てくる。特に原作にはない12年後の設定には無理があったように思う。
しかし、そんな不満も吹き飛ばすほど、ヒロイン山内桜良役を演じる浜辺美波さんが可愛かった。
男性目線の恋愛映画だなあと思って見ていたのだが、後でネットで調べたところ原作も監督もやはり男性であった。

『非戦』

坂本龍一+sustainability for peace監修『非戦』(幻冬社 2002)をパラパラと読む。
9.11アメリカ同時多発テロ事件とアルカイダへの報復を意図したアフガニスタン紛争について、各界の著名人の寄稿文が収録されている。坂本氏は次のように述べる。

 TVではブッシュ大統領が「これは戦争だ」と宣言した。ついで、小泉首相がそれを支持する声明を出した。しかし報復すれば、傷つくのはどこにも逃げ場のない子供を含む一般市民だ。小泉首相は平和憲法をもつ国の代表として、いかなる戦争行為も支持するべきではない。ましてや無実の市民が傷つくことも辞さない戦争に加担するわけにはいかないはずだ。そして戦争支持宣言をしたことで、同様のテロ攻撃が日本にも及ぶ可能性が増すことになった。一国の首相として、国民をあえてそのような危険にさらしていいのだろうか。なぜ国民の側から疑問の声があがらないのだろうか。

もし日本の首相が憲法に基づいて戦争反対を表明し、平和的解決のための何らかの仲介的役割を引き受ければ、世界に対して大きなメッセージを発し、日本の存在を大きく示すことができたはずだ。その絶好の機会を逃してしまったが、まだ遅くはない。これは日本のためだけでなく、21世紀の国際社会への大きな貢献になるはずだ。

ぼくは思う。暴力は暴力の連鎖しか生まない。報復をすればさらに凶悪なテロの被害が、アメリカ人だけでなく世界中の人間に及ぶことになろう。巨大な破壊力をもってしまった人類は、パンドラの箱を開けてはいけない。本当の勇気とは報復しないことではないか。暴力の連鎖を断ち切ることではないか。

 

改めて、日本国憲法第9条には次のように書かれている。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

北朝鮮による通告なしのミサイルは言語道断だが、米韓合同軍事演習や航空自衛隊と米軍爆撃機編隊との共同訓練も同じく、「武力による威嚇」であり容認できるものではない。アフガニスタン紛争やイラク戦争が結局は解決のない泥沼になってしまった歴史を踏まえるべきである。「報復のための戦争」「正義のための戦争」「民主主義を守るための戦争」のいずれも失敗に終わった歴史を。

私と同年齢の重信命(May)さんは次のように述べる。

 何よりも大切なのは、この世界の構成員である私たちが、世界システムの新しいパラダイムを考えはじめることであり、そこでもっとも重要な役割を果たすのはおそらく日本だろう。日本は平和憲法を持ち、戦争に参加しない権利がある。残念ながら、その大切さはまだ認知されていないが、手遅れになる前に理解されることを望みたい。

 

また、本書はアフガニスタン紛争、その原因となったアメリカ同時多発テロだけでなく、その原因ともなった米軍によるアフガンへの武器供与やイスラエルによる武力制圧の全てを、子どもの生活や未来を奪う戦争に反対するという立場で貫かれている。一般市民が犠牲になる武力行為は否定されるというのが一般的な了解事項である。しかし、今般の北朝鮮問題では、一般市民の姿、とりわけ子どもの様子が報じられない。北朝鮮が情報を出さないのか、日本のマスコミが意図的に報じないのかは分からないが、北朝鮮で暮らす一般市民の生活がもっと見えてくれば、少しは冷静な判断ができるのではないだろうか。繰り返し繰り返し金正恩とミサイルの映像ばかり見せつけられては、「北朝鮮=怪しい=滅ぼすべきだ」という短絡的発想に洗脳されてしまう。

『高校放浪記』

稲田耕三『高校放浪記:ある青春の記録』(サイマル出版会 1972)をパラパラと読む。
教師への反発や喧嘩、タバコなどで、停学や放校処分を繰り返し、県立高校を5校も転校して卒業した若者のゴツゴツした心情が綴られる。当時ベストセラーになったとのことだが、現在読んでもあまり新鮮味は感じない。