水無田気流『無頼化する女たち』(洋泉社 2009)を読む。
ちょうど伊豆大島の往復のフェリーに乗っている間に時間があったので、久しぶりに新書を立て続けに3冊読んだ。
最初は一人称の語り口調の文章に苦手意識が立ったが、読んでいく内に水無田さんの独特の文体のリズムにはまってしまい、一気に読み終えた。
現代女性女性をめぐる諸問題について、1980年代、1990年代、2000年代の3つに分けて論じている。とりわけ印象に残った一節を引用してみたい。
公的な場(たとえば職場など)では、女性は「性的対象としてだけ見られる」ことは、侮蔑である。だが一方、私的な場では、「性的対象として見られない」ことこそが、侮蔑となる。
前者は正しさ界、校舎は望ましさ界に親和性が高い。しかし、公的な場でも、完全に性的対象として見られない(女性としての魅力がない)ことは、望ましいとは言えないどころか、暗黙の差別を生む。東電OL殺人事件を、思い出してほしい。
アンドレア・ドウォーキンのように、「女性として見られることそれ自体が差別」と言い切れるならば、話は単純である。だが、多くの女性は、その境地にたどり着けない。それは正しさよりも望ましさが日常を覆っているからである。