イェーリング『権利のための闘争』(日本評論社 1978)を20年ぶりに手に取ってみた。
明々後日に1週間「延期」された西洋史の試験が控えている。10月試験の範囲は、30年戦争からウィーン体制までの200年間の政治史である。名誉革命やフランス革命における用語を、試験中に困らないように頭に詰め込んでいる。ふと、アメリカ独立戦争やフランス革命以降の近代法がどのような結実を得たのかと思い、本棚から引っ張り出してきた。
学生時代に大学近くの古本屋で購入した本で、ぷ〜んとして古本の匂いと「寅書房 ¥300」というラベルが懐かしい。
しかし、20年前はきちんと読み通したのだろうか。読んだつもりで終わったのだろうか。序文を数ページ読んだだけで「お腹いっぱい」となった。
悔しかったので、印象に残った第1章の「法の起源」の冒頭部分を引用してみたい。
法の目標は平和であり、それに達する手段は闘争である。法が不法からの侵害にそなえなければならないかぎり——しかもこのことはこの世のあるかぎり続くであろう——、法は闘争なしではすまない。法の生命は闘争である。それは国民の、国家権力の、階級の、個人の闘争である。
世界中のいっさいの法は闘いとられたものであり、すべての重要な法規はまず、これを否定する者の手から奪いとられねばならなかった。国民の権利であれ、個人の権利であれ、およそいっさいの権利の前提は、いつなんどきでもそれを主張する用意があるということである。法はたんなる思想ではなくて、生きた力である。だから、正義の女神は、一方の手には権利をはかるはかりをもち、他方の手には権利を主張するための剣を握っているのである。はかりのない剣は裸の暴力であり、剣のないはかりは法の無力を意味する。はかりと剣は相互依存し、正義の女神の剣をふるう力と、そのはかりをあつかう技術とが均衡するところにのみ、完全な法律状態が存在する。
法とは不断の努力である。しかも、たんに国家権力の努力であるだけでなく、すべての国民の努力である。法の生命の全体を一望のもとに見渡せば、われわれの眼前には、すべての国民の休むことのない闘争と奮闘の情景がくりひろげられている。その光景は、すべての国民が経済的な、および精神的な生産の分野でくりひろげているものと同じものである。自分の権利を主張しなければならない立場に立たされた者は、だれしもこの国民的作業に参加し、それぞれのもつ小さな力を、この世での法理念の実現にふりむけるのである。