月別アーカイブ: 2012年1月

『ヒトリマケ』

hitorimake_movie

今日は寒いので、遠くへ出かけず一日中家で子どもと一緒にだらだらと過ごした。
昨日の疲れのため12時間もの睡眠の後、昼は子ども3人連れて近所の公園を散歩しに、夕方は真ん中の子を連れて、いつもの通りヤマダ電機へトミカを買いに。

そして、夜は、一年前にテレビで放映されていた、四季涼監督・街田しおん・井戸田潤主演『ヒトリマケ』(2008 日本)をぼーっと観た。アイデアはゲーム感覚で面白いのだが、あまりに低予算な映画というチープさが目立つ映画であった。
それにしても何もしない「無駄」な一日というものもたまには大事である。

国家と自然の脅威を感じた2日間 後編

二日目〜岩手宮城を巡る

仙台のビジネスホテルで一泊(3700円)した後、三陸自動車道で登米市まで行き、国道346号、国道45号を経由し、岩手県大船渡市まで一気に走った。仙台からはかなり遠く、到着する頃には昼近くになってしまった。国道から見る限りでは瓦礫の撤去はかなり進んだようで、スムーズに走ることができた。

大船渡という市名は今回の震災で初めて知ったのだが、港湾周辺は写真の通り、未だ倒壊寸前の建物が林立している状況である。瓦礫等は既にきれいになっており、車で走るのは容易なのだが、辺りは東京大空襲や原爆投下後の広島や長崎を彷彿させる光景が広がっている。「一面焼け野原」という単語が脳裏をよぎる。
写真は大船渡線の大船渡駅周辺なのだが、線路も駅舎も何もかも流されてなくなってしまっている。また、この周辺は震災の影響で70センチ近く地盤が沈下しているためか、少し窪んだところは海水が溜まったままになっている。高台の方は新築の家が建ち始めているのだが、低地は方針が決まるまでこのままなのであろう。

大船渡線の終点のさかり駅で少し休憩した。さかり駅は少し高台になっているためか、駅舎は無事であった。先ほどの大船渡駅周辺は壊滅だが、少し坂を上ると普通に店も営業している。このギャップも不思議である。
大船渡市には、気仙沼から海岸線を走る大船渡線と、大船渡と釜石を結ぶ三陸鉄道南リアス線の二つの路線があったが、両方とも線路が流され営業はしていない。路線自体が海沿いにあるため、数年後の営業再開は難しそうだ。

大船渡のおさかなセンターで昼食をとり、国道45号線を戻って、陸前高田市に向かった。陸前高田市は中心街が平地に集まっていたため、津波の被害が甚大で、震災後連絡が取れなかった所である。上記写真の気仙中学校は3階建てだが、屋上までめちゃくちゃであった。津波の被害は頭の中では理解していたが、実際に現場に立って、頭を傾げて見上げるとその高さとパワーをひしひしと肌で感じる。

陸前高田市の中心に位置する高田松原周辺の様子である。中心街だったので、カーナビの画面にはコンビニやガソリンスタンドの情報が次々と出てくるのだが、実際には四方八方何もなくなってしまっている。建物の土台すら流されたのか、撤去されたのか、跡形も無く消えてしまっている。

海岸線から2~3キロ走ったのだが、平地は奥の方まで更地になってしまっている。大船渡や後述する気仙沼は、中心の駅や役所が残っているので、復興に向けた取り組みも徐ながら進んでいる気配を感じる。
しかし、陸前高田市や南三陸町などは中心市街地そのものが根こそぎ破壊されてる。建物や町の一角が損壊しているのならば、修復や復興の道筋が立ちやすい。しかし、四方が全て更地になってしまった場所にいざ立ってみると、この場所にまた町を作るというイメージがどうしても沸かない。私の想像力が貧困なのだろうか。

陸前高田市の海沿いには、堤防の代わりだろうか、瓦礫の山が築かれていた。木材や鉄パイプ、生活用品のチャンプルの瓦礫の山を見上げると、その量に驚きである。震災直後は瓦礫によって道路という道路が塞がれていたという。何もかも無に帰してしまう津波の破壊力に驚きを超えて神秘さすら感じてしまう。

陸前高田を後にして、さらに国道45号線を南下していった。気仙沼を走っていると突如馬鹿でかいタンカーが目に飛び込んできた。現実のものとは即座に認知できず、映画のセットのような違和感を禁じ得ない。気仙沼も大船渡同様に、低地の港湾地区と高台の住宅地の被害の差が歴然としており、住宅の新築を中心として、復興に向けて動き出している雰囲気を感じた。

気仙沼市も70センチ近く地盤沈下しており、海岸沿いが海に飲み込まれたような様相を呈している。被災地を見学しにきた観光客(?)の姿も目についた。

気仙沼から国道45号線を南下する。この国道45号線は比較的山沿いを通っており、海沿いには気仙沼線の線路が敷設されている。写真は陸前小泉駅の様子である。平地から5〜6メートル上に線路があったのだが、陸橋も破壊され、線路も存在を消してしまっていた。

左の写真は確か陸前港駅だった気がする。そして右は歌津の町の写真だったと思う。鳥居が半分地中に埋もれている。
この時間帯は車から写真を撮って行ったので、記憶が曖昧である。

上記の4枚の写真は南三陸町の清水浜地域の様子である。

南三陸町清水浜の空き地に集められたぺしゃんこの車の様子。3月11日に震災のテレビ映像を見た時は、車がミニカーのように感じたが、実際はここまで変形してしまうのである。

最後に南三陸町の中心を訪れた。海岸から2キロほどの高台にある志津川高校からの映像がテレビで何度も放映されたが、陸前高田と同じく、南三陸町の役場の建物も含め中心街は全て更地になっていた。
「言葉を失う」という表現があるが、まさに何と表現してよいか分からない破壊の爪痕であった。
鉄パイプをくしゃくしゃに曲げる水の力に改めて恐怖を感じた。たかが水と思うが、ひとたび町を襲う時にはとてつもない力を発揮するということを肝に銘じたい。

陸前戸倉の駅跡の様子。ここも駅がかつてあったという気配すら消してしまっている。

この後石巻にも立ち寄ったのだが、海沿いに向かう道の渋滞と時間の都合で途中で引き返さざるを得なかった。また改めて出かけてみたい。

時代は便利になったもので、「グーグルマップ」で、震災直後の写真や、ストリートビューで震災後数ヶ月後の映像を見ることができる。しかし、実際に現地に立って四方を眺め回すことで、その津波の「立体的」な大きさを感じることができたように思う。
一昨年に八ッ場ダムや茨城空港を訪れた際にも感じたことのだが、人間の身体的なスケールを遥かに超える変動に際しては、実際に現場を訪れてその場で考えることが大事だと思う。インターネットの大容量回線が普及してきて、活字情報のみならず、写真や映像にも自由に触れることができる現代だからこそ、頭だけでの理解することの危険性を意識して行きたい。

国家と自然の脅威を感じた2日間 前編

新年三が日が明けてすぐ、2012年1月4日から5日にかけて、東日本大震災の被災地にあたる福島宮城岩手の3県を車で廻ってきた。
「東日本大震災による東北地方無料措置」により、茨城の水戸から北は高速が全て無料だったので、とことん使いまくってきた。2日間で走った総距離約1300キロ。とことん疲れた旅であったが、色々と考えさせられることも多かった。
文章としてまとまっていないが、記録として道中ふと考えたことを留めておきたい。

初日〜福島を巡る

無料区間の水戸インターから常磐道を北上していった。途中いわきまでは高速無料化の影響もあってか賑わっていた。しかし、いわきを抜けると、写真のようにガラガラであった。それも当然であろう。いわき市の北に位置する広野町以北は電車も高速も一般道も全て封鎖されているのだから。時折誰も乗せていないマイクロバスとすれ違うのが何とも不気味である。

常磐道広野出口を降りて、東京電力が建設運営しているJ-villageへ出向いた。ちょうど国道6号線沿いにあるのだが、入り口に近づいたら、機動隊の「かまぼこ」(う~ん、何とも懐かしい表現である…)が道を封鎖していた。そして防護服に身を固めた警官が見物に来る車、来る車をどんどん追い返していた。
そこで、裏のグランドの方へ回ると、そこには単身者用の仮設住宅が隙間なくぎっしりと建てられていた。おそらくは下請け孫請けの社員たちが利用するのであろう。コンテナ型の建物がカプセルホテルのように密集している。

このJ-villageは福島第一原発の半径20キロ圏の境界に面した場所にある。電気やガスの供給も十分ではないという報道もあった。グランド脇にはウォーターサーバーの空き容器が山のように捨てられていた。防護服の山を見ることはできなかったが。。。
この場所が再び本来のサッカーの舞台として脚光を浴びる日は来るのであろうか。

このJ-villageに隣接する広野火力発電所の煙突からはモクモクと水蒸気が上がっていた。この広野火力発電所は東京電力の供給エリア外に立地する発電所である。地元福島ではなく、関東圏に電気を供給するための施設である。J-villageの死のイメージと対比的に生の雰囲気を感じてしまった。

この広野町から北へ行く道は全て「災害対策基本法」によって立ち入りが禁止されている。さらに、周辺では白い防護服に身を固めた警官の乗ったパトカーがひっきりなしに警邏で通りかかる。2年ほど前に観た映画『感染列島』のシーンが頭をよぎる。映画のエキストラになったような感覚を覚えた。

ちょうどお昼時になったので、J-villageの前で営業していた手打ちラーメン屋で食事をした。震災後に営業を始めたのであろうか、外も中も真新しい造りであった。本格的な手打ちで腰のある麺だった。ラーメンを啜りながら午後の旅程を練る。

昼食後、広野火力発電所を左に見ながら海岸線を下って行った。この広野町は「緊急避難準備区域」に指定されており、3月から4月まで強制的に住民が避難を余儀なくされた地域である。警報が解除された後も、多くの住民が戻ってきていないようだ。辺りに人の気配が無く、津波で損壊された橋脚や住宅も手付かずのままであった。
広野町役場は現在いわき市に置かれており、人口は5300人を数えるが、町内で暮らすのはわずか250人となっている。

広野町駅までは電車が動いているが、折り返し運転で北方面へは電車は動いていない。駅前にも地元の住民の方の息遣いは感じられなかった。しかし、商店街の向こうには先ほどの火力発電所がフル稼働している。何とも不釣り合いな光景であった。

この後、くねくね道を経由して、国道399号線を北上しようとしたが通行止めであった。結局、一般道で北上することができないことが分かり、常磐道でいわきJCTまで戻り、磐越自動車道、東北自動車道を通って仙台まで行った。軽自動車での100数十キロの高速の移動はかなり疲れるものであった。

『わが解体』

高橋和己『わが解体』(河出書房新社 1971)を読む。
冬休みなので、少し堅い本でもと思い手に取ってみた。
高橋和己氏は、その研究内容よりも、1969年の大学紛争の渦中、新左翼寄りの立場をとり学生の直悦民主主義を支持し、京都大学の教授会を批判した文学者として知られる。しかし、大学助教授としての彼の批判は、新左翼の学生の目には体制内批判とも理解されていった。彼は敵からも仲間からも批判の対象となり、心労が続き大学を辞職し、結腸癌により40歳の若さで命を閉じている。

この『わが解体』は、表題作の他、入院生活や手術の模様を綴った『三度目の敗北』、市中デモで命を落とした学生存在について疑問を発する『死者の視野にあるもの』、そして、民青と新左翼のゲバルト、また新左翼の党派内部の内ゲバについて、辛亥革命やソ連の共産主義革命を引き合いに論じた『内ゲバの論理はこえられるか』の3作が収められている。
どの作品も、ロマンチックに片方の勢力を鼓舞するものではなく、マスコミ的に外野から論じるものでもなく、当時の文部省の出先機関である国立大学の教職員の立場を代弁するものでもない。当事者として「学生—教授会」の対立の橋渡しを引き受けながら、対立が激化する中で、自らの存在意義を失っていく一文学者としての悲痛が描かれる。

彼のそうした微妙な思想のありようを示す一文があったので引用してみたい。
1968年3月京都大学に機動隊が導入されることになり、反対する学生が投石で応じ騒然とした事態が生じた。そこで、学生のシュプレヒコールの怒号のうちの一つに「機動隊帰れ、ここは貴様らの来るところじゃないぞ」という声が起こる。たまたまその場に居合わせた著者はそうした声に優越者の奢りを感じる。

人の生涯やその生計のあり方は、哲学的には絶えざる各人の自立的選びの集積としてあるべきものながら、些細なことが決定的要因となったり、その人個人の責任には属さぬ条件が大きく運命としてのしかかることのあるのも、四十年近い生を生きてきてみれば認めざるをえない。同年輩の青年のある者が、学生となり、他のものが機動隊員となるのも、そのきっかけは、ちょっとした偶然や、その人のまだ完全には自律的たりうる以前の家庭や資質などの条件に支配されることの多いものであろう。そうした条件に押されて生まれる最初の小さな差異は、やがて、この社会の機構にくりこまれて巨大な落差となり、さらには自分の立場にその精神を同化させてゆく人間の習性によって容易には転換できぬ対立ともなる。その対立の上に、一方の憎悪は他方の憎悪に増幅し、相互拡大してゆくのも今のところはやむをえない。一つの観念をそれと対立する観念との相互包摂下に理解し、一つの立場への了解は同時に敵対的立場の者へのなにほどかの洞察をうながす文学的な思惟習性を身につけてしまっている私は、一瞬、自分が仮に機動隊員の一員であったとして、投石と、先の罵声のどちらがより深い傷となるだろうかと考えてしまったのである。

『池袋ウエストゲートパーク』

石田衣良『池袋ウエストゲートパーク』(文春文庫 2001)を読む。
池袋西口を舞台にした若者たちの青春物語である。ミュージカル映画『ウエスト・サイド物語』の世界観を借りたのか、映画と同様にギャング同士の抗争と友情、恋愛が同時並行で進んでいく。ストーリーは強引なのだが、キャラクター一人ひとりの描き方が際立っており、最後まで一気に読んでしまった。
解説の中で、文芸評論家の池上冬樹氏は次のように述べている。これ以上付け加える必要はないだろう。

本書を久々に読み返してみて、あらためて驚いている。
文章はやわらかいし、イメージは新鮮だし、何よりやわらかな感覚が眩しいくらいだ。なんと若々しい小説であることか!
いうまでもないことだが、若々しさは、作者が若いから生まれるものではない。若々しさは、作者が獲得した対象を見つめる視線の強度と、それを正確に表現できる文章力と、さらにその文章を客観視できる鍛錬から生まれる。