月別アーカイブ: 2011年3月

『「戦う組織」の作り方:リーダーの覚悟が、会社をここまで強くする!』

渡邉美樹『「戦う組織」の作り方:リーダーの覚悟が、会社をここまで強くする!』(PHPビジネス新書 2009)を読む。
今度東京都知事選に出馬するワタミ(株)会長を務める著者が、自身の経営哲学を存分に語っている。ワタミは外食だけでなく、M&Aで学校経営や病院経営を手がけ、介護や宅配、農業にまで手を伸ばしている成長企業である。そのため著者の渡邉氏も、外資のような効率的なドライな経営を行う敏腕経営者というイメージが強い。しかし、本を読んでみると、年功序列こそ徹底的に否定しているが、部下のしかり方やお客さまの視点に立ったサービスなど、極めて昭和的な日本式経営論となっている。
彼が東京都知事になってどのように東京都職員の気質を変え、東京を変えていくのか見てみたい気がする。少なくとも石原現都知事よりは変化に期待がもてそうである。

会社とは、理念集団である。理念を持った人間の集まりである。(中略)
その集まってくれた人たちを切るというのは、たとえ派遣社員だったとしても、彼らに対する裏切り行為だ。これでは働く人が、会社を信用できなくなってしまうではないか。(中略)
私は「人は経営資源ではない」と思っている。経営学の教科書には、「経営資源とは、ヒト、モノ、カネ、情報のこと」と書かれているが、これは間違いである。
「モノ」「カネ」「情報」は経営資源だから、売上を伸ばしたり利益を上げるために、買ったり売ったり、捨てたり拾ったりしてもいい。
しかし人は経営資源ではなく、会社そのものである。会社と従業員は、同体だと私は思っている。売上や利益を確保するための手段として、買ったり売ったり、捨てたり拾ったりするものではないのだ。(中略)
実は「人は経営資源ではない」という考え方は、昔の日本の企業ならどこでも持っていたものだ。会社の経営が苦しいときでも、できる限り従業員の雇用を守るというのが日本的経営だった。
これが崩れたのは、アメリカ型の株主重視経営の考え方が導入されてからだ。守るべき対象が、社員から株主へと変わってしまったのだ。企業は、株主への配 当金を確保するために、内部留保を重視するようになった。内部留保を増やすためには、人員を削減することで人件費を削る必要が出てくる。つまり株主のために、従業員を切るということが行われたのだ。
しかし時代がどんなに変わったとしても、守るべき優先順位は、株主よりも社員である。なぜなら社員を優先することが、結果的には株主の利益にもなるからだ。

『実践!アインシュタインの論理思考法』

スコット・ソープ『実践!アインシュタインの論理思考法(How to Think Like Einstein)』(PHP研究所 2002)を半分ほど読む。アルバート・アインシュタインがそれまでのニュートン以来の常識やルールを破って、相対性理論を発見したように、ビジネスや日 常生活における小さなアイデアを問題解決にまで導くためのハウツー本である。
日本語訳もこなれておらず、また日本の社会や組織にそぐわない「戦略論」であり、途中で興味をなくした。
また、アインシュタインの言葉が数多く引用されているが、話の中身は著者自身の見解であり、アインシュタインの業績とはほとんど関係ない。書店で読者の興味をひくためにアインシュタインの名前を利用したにすぎない羊頭狗肉な本であった。

『サーチエンジン・システムクラッシュ』

芥川賞の候補ともなった、宮沢章夫『サーチエンジン・システムクラッシュ』(文藝春秋 2000)を読む。
40を過ぎた中年男が、自身の存在を確かめながら、学生時代のゼミ仲間の殺人動機やゼミ教授の正体を追って池袋の町を歩き回る。ストーリーは最初から破綻しており、大学卒業してから20年も経つのに、その確かな到着点を確かめられない人間心理や社会の移り変わりが描かれる。
主人公して言わしめている次のセリフが印象に残った。

あの日(「虚学」ゼミの講師である)畝西が十一人に向かって投げかけた言葉、「生きているのか、死んでいるのかわからない。その曖昧さに耐えられるか」という言葉をまた思い出した。僕たちは存在していなかったかもしれない。生きていたのかもしれないし、死んでいたのかもしれない。宙ぶらりんで、なにかロープのようなものを支えにして、あれから僕たちはずっと空中に浮かんでいたにちがいない。浮遊するためのロープから手を放し、どこかへ飛び降りようにも、その場所が見あたらず、向こうで誰かが飛び降りたのを見て軽蔑した。あんな場所に降りたのかと笑っていた。あんな場所に降りるくらいならこのまま宙ぶらりんのままがいい。気がついたら二十年が過ぎていた。

『男性解体新書』

先日の地震で本棚に積んであった本が崩れ、購入したまま久しく陽の目を見ていなかった本が出てきた。
村瀬幸浩『男性解体新書:柔らかな共性と性教育の革新のために』(大修館書店 1993)を読む。
元保健体育の教員である著者が、男性器の構造や男性の性の悩み、また「男らしさ」の呪縛などを分かりやすく語る。著者はいたずらに「ジェンダー論」に寄せ付けるのではなく、男性の性機能そのものに対する抑圧から男性を解放することが先決だと述べる。「草食系」や「イクメン」といった言葉が当然のように使われる2011年の現在の状況に照らし合わせると当然のような議論にも見える。しかし、バブル崩壊までは「3高」や「過労死」といったように、「男らしさ」が過剰に強調され、男性性からの解放といったスローガンも相当の革新であったのだろう。

私はこの性交を含む性関係のあり方の問題が、言葉にあらわしにくいがそれだけに最も深いところで差別意識や支配、服従の関係を男女の間で再生産しているのではないかと思うからです。政治的にはもちろん、経済的に、あるいは家庭内の役割において対等な関係がなりたったとしても、なお残る両性間の問題は「性」である。「性表現」「性関係」「性の主体は男であり女は受け身という刷り込み」ではないかと思うのです。残る問題というのは適当ないい方ではないかもしれない。あえてスタートの問題といったほうがいいかもしれない。性関係における支配、服従(主体と受け身)の刷りこみが男女関係を窮屈にし抑圧する根源というべきかもしれません。

『「超」手帳法』

野口悠紀夫『「超」手帳法』(講談社 2006)を読み返す。過去2回くらい読んだ本である。私自身が日々時間を無駄に過ごしているという自覚があるので、ついつい他力本願の神頼みで、この手の本に手が伸びてしまう。
著者は、将来の目標を書き込んだり、日々の記録や感想を書き込んだりする手帳ではなく、あくまで自分の余暇や趣味のための空白の時間を作り出すための、タイムマネジメントやメモ、TO-DOリストを提唱する。