月別アーカイブ: 2009年7月

『ラジオデイズ』

今夏はこれからの10年を案じるに、一番余裕がありそうな夏になるかもしれない。今年は高校3年生の担任を受け持ち、10年次研で10日近くの研修をこなしつつ、まだ首の座らない子どもを抱えて、齷齪する毎日を送っていることになるのだが、昨年までの足下掬われるようなことは今のところ無い予定だ。
今後の10年に向けた元気を養う40日間としたい。
やはり私は、道着をしっかりと着て汗を流し、読書によって自分の視野と心の限界線を拡げ、日記をつけることで自分の拠って立つ位置を確認する作業が必要である。学生時代からの習慣を改めて実践していきたい。

第34回文藝賞受賞作である、鈴木清剛『ラジオデイズ』(河出書房新社 1998)を読む。
過去とも断絶し、未来にも希望が描けないけだるい20歳前後の青春期を描く。登場人物の次の言葉が印象に残った。

(やりたいことを)口に出せば出すほど、言葉で形になっちゃうんだよ。形になっちゃったらさ、人間はもう行動しようとしないんだぜ。喋ることでエネルギー使い果たしちゃうんだ。カズキの周りにもいるだろ。熱く語っているやつら。ああいうのは、それで終わりだな

『晩年』

ここしばらく、1936年(昭和11年)に刊行された、太宰治処女短編集『晩年』(新潮文庫 1947)をぱらぱらと読んでいる。
半分ほど読み終えたところだが、全く面白くなく、これ以上読むまいとページを閉じたところである。
故郷でちやほやされ、東京帝大を出たばかりの20代の若者の、人を馬鹿にするようなエリート意識が作品の底流に流れている。そして、今度は、その侮蔑の矛先が、左翼運動の自滅や心中未遂事件以降、自分自身に向かってしまうという悲劇が描かれる。
高い評価を得ている作品のようであるが、多忙を極めている現在の自分には、当時の太宰が抱えているような自己否定の鬱とした感情を受け入れる余裕はない。

今夕のテレビニュースは、昨日の東京都議選の自民党敗北を受けて、麻生総理の解散、辞任、不信任の文字が躍る喧しいものである。一度「国民の敵」を作り上げると徹底して潰そうとする日本のマスコミのいやらしさばかりが鼻につく。

『女は見た目が10割:誰のために化粧をするのか』

鈴木由加里『女は見た目が10割:誰のために化粧をするのか』(平凡社新書 2006)を読む。
化粧や整形、ダイエットなど、キレイになるために努力をつづける女性の姿を追いながら、いったい何が女性をそこまでキレイにすることへ追い込むのか、いったい美人とブスの線引きはどこでなされるのかといった疑問を呈する。整形業界、コスメ業界の思惑、男性の保守的な考え、女性同士の駆け引き、フェミニズムなど様々な視点を紹介する。

『レキシントンの幽霊』

村上春樹短編集『レキシントンの幽霊』(文藝春秋 1996)を読む。
『1Q84』を読む前に少し村上春樹の復習をしようと思い手に取ってみた。
一つ一つはきわめて短いのだが、どれも妙に印象に残る作品ばかりであった。日常の中でふとわき上がる過去の出来事に対する後悔や他者への不安、平板な生活に対する不満などが、幽霊や生きている波、氷男などに具現化されて登場する。SF的な物語設定を取りつつも、人間の内面をきちんと描いている。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破』

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子どもをお風呂に入れてから、ララガーデンへ映画、庵野秀明総監督『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破』(2009 クロックワークス)を観に行った。
前作はテレビ版のCGによる焼き直しであったが、今回はテレビ版とは大きく逸脱し、新しい壮大な物語の始まりを予感させる形で話が終わる。テレビ版もストーリー展開が早かったが、映画はさらにそのテンポが加速し、象徴的なシーンの切り貼りにより、一気テーマの核心であるに「人類保管計画」まで話が進んでいく。

神になりたい、神に近づきたいという旧約聖書のバベルの塔にも見られる人間の本質的な欲。
自分だけが違うという寂しさに耐えられず、他人と一緒になりたいという人間の孤独。
母親の胎内という世界で一番安全な場所に帰りたい、逃げたいという人間の弱さ。
エヴァンゲリヲンという人間の「心の鏡」を通して、人間存在そのものについての疑義が浮かび上がる。

現在の日本のアニメの最高のシリーズを観たという満足感でいっぱいである。