さくらももこ『まる子だった』(集英社 1997)を読む。
著者さくらももこさんが「ちびまる子ちゃん」時代の小学校3・4年生頃を振り返る。読みやすい文章であり、実家近くの歯医者の待合室で一気に読んでしまった。
『ちびまる子ちゃん』と同様に、さくらももこワールドの面白さは、著者の自由な空想の世界と、周囲の固定観念や常識のギャップにある。著者は家でも外でも、学校の授業中でも常に、仔犬との朗らかな触れ合いやメルヘンなクリスマスパーティーなど夢溢れる空想を楽しんでいる。ノストラダムスの話を聞けば、地球を守るための方策を練ったり、級友との仲が噂になれば、噂が実現したときのクラスの雰囲気を危惧するなど、現実世界から突飛な予想へとふっと空想が飛躍していく。しかし、教師や母、父ヒロシなど周囲の大人は、そんな著者を「地方都市の清水住む平凡な小学生の女の子」という固定観念を通してしか見ない。「本当はこうなのに」「こうなったらどうする?」といった著者の内面の叫びが、突拍子もない行動やニヒルな笑いとなって表面化してくるのである。このエッセーを読むとそういった「背景」まで理解できるので大変面白い。
閑話休題、昨夏より、東京新聞の朝刊でちびまる子ちゃんの四コマ漫画が始まったのだが、これが不快なほど面白くない。
四コマ漫画のためか、上記の心の中の言葉は全て省かれてしまっていて、家族や級友を馬鹿にしたり、クールに振舞うだけのまる子ちゃんらが登場する。さくらももこさんの面白さは内面と外面のギャップ−自分が捉える〈自分〉と他者が見る〈自分〉とのギャップ−にあるのに、それが全て払拭されては、単にひねくれた小学生のやりとりになってしまう。シュルツの『スヌーピー』も同じだが、セリフの行間に流れる間を味わう必要があるのだ。
東京新聞を読みはじめて今年で9年になるが、早く連載が終わってほしいと願っているのは私だけでないはずだ。