本日さいたま新都心コクーンへ、チョン・ユンチョル監督『マラソン』(2005 韓国)を観に行った。
自閉症の二十歳の青年がマラソンに参加することで、青年のためにばらばらになっていた家族が再び絆を取り戻すという話である。
青年本人が自分自身の気持ちを表現することができないために、本人をとりまく各人それぞれがそれぞれの主観で青年を捉えてしまう。そのため、「この子はこうだ」「いや、この子はあれだ」と本人のいないところで、それぞれの思いがぶつかってしまう結果になる。青春映画であったが、愛情があればあるほど話がこじれてしまう「障害者」を巡る家族の「悲劇」がうまく描かれていたと思う。
月別アーカイブ: 2005年7月
スクーリング授業
いよいよ、今日から日本社会事業大学のスクーリング授業が始まった。たったの1週間であるが、電車で1時間以上もかけて、遅刻せずに通うことができるだろうか。電車に乗り慣れないため、疲れが出てしまうのではないか。
社事大はさすがに厚生労働省が作った大学だけあって、閑静な住宅街の真ん中のこぢんまりとした大学で、いかにも「勉強するぞ!」という雰囲気に満ちたキャンパスであった。運営費の大部分を国が負担するため、学費は国立大学並なので、福祉を考えてる受験生に是非お勧めしたい。
『田辺聖子の古事記』
田辺聖子『田辺聖子の古事記』(集英社文庫1991)を読む。
古事記を天皇崇拝のものだとする国粋主義的読み方を否定し、人間の悲哀や男女の恋愛を描いたヒューマンストーリー、ラブストーリーだと割り切って、彼女ならではの解釈を加えた意訳を試みている。改めて古事記を読み返してみて、その人間性のにじみ出た話の展開に意外な感じがした。
確か10年前に大学の授業で受けた時は遅々として授業は進まず、ひたすら眠かったのを覚えている。そして、ふと解説を読むと、私の大学の先輩にあたる萩原規子さんの「教授は、上巻冒頭の神々の系譜を示し、その一柱一柱の神の名前の、おそろしくていねいな読み解きからはじめた。それは延々と続き、1年間で上巻の半分までも進まなかった。退屈でなかったといったらうそになる」との一節が目に入った。まさしく10年前の私をも深い心地よい眠りに誘ったT教授の授業風景が書かれているではないか。すでに退職されたとのことだが、あの子守唄をまた聞きたいものだ。
『おちくぼ姫』
田辺聖子『おちくぼ姫』(角川文庫 1990)を読む。
竹取物語と同じ説話物語のジャンルに属する『落窪物語』を意訳した作品である。おちくぼ姫が男性に会う恥ずかしさよりも、自分の粗末な服を見られて泣いてしまうシーンなど女性心理がうまく描かれている。
よく古典の参考書などでは「継子いじめのシンデレラストーリー」との紹介がなされるが、田辺さん曰く、「少将とおちくぼの姫の純愛」がこの作品を一貫して流れるテーマである。一目会ったその時から、幾多の試練を経て幸せな結婚、出産という大団円を迎える男の純愛がテーマである。田辺さんの脚色も入っているのだろうが、おちくぼ姫に初めて出会った少将は後朝の手紙に次のような言葉を姫に送っている。
夢はまだ見ぬ恋にあこがれ、見たあとはかえって恋がさめるものだといいます。
しかし私は反対です。お目にかかって、ますます、あなたを離したくなくなりました。
ほんとうをいうと、恋をしたことはいままでに幾度か、ありました。
しかし、恋に苦しんだのは、あなたがはじめてです。
あなたに苦しめられる少将より
しかし、メイドカフェの流行など、男性の方が女性に対する勝手な理想に固執するものである。今どきは女性よりも男性の方が、偶然と運命に左右されるシンデレラストーリーに憧れを抱くのではないだろうか。
『中年ライダーのすすめ』
加曽利隆『中年ライダーのすすめ』(平凡社新書 1999)を読む。
加曽利氏はバイクに乗るということは日常の生活の時間を断ち切って、非日常を走るものだと定義づけている。確かに、バイクは車に比べ荷物も積み込めず、雨や風にさらされ、事故の危険度も高い。しかし、バイクにはその利便性や機能性を越えて、もっと思想的なものがあると私は感じる。ヘルメットを被ると、否応無しに自分と向き合わざるを得ない。車であれば音楽やラジオを聴きながら、また同乗者と会話を楽しみながら運転出来るが、バイクはそのような行為は許されず、ひたすら道を走る自分との対話しかない。それゆえに、日所生活の自分を客観視し、また明日へのロマンを培う時間となることもあろう。
私自身も結婚を機にバイクは売ってしまったが、またバイクに乗りたくて仕方がない。別に速くなくとも、パワーがなくとも構わない。気楽に日常生活から抜け出て、そして自分と真摯に向き合う時間がほしい。
ツーリングの最大のよさは、「道」ととことんつきあえることだ。道ほど魅力に富んだものはない。自分の家の前からはじまる道は、限りなくどこまでもつづく。その道沿いにはツーリングの魅力のすべてがつまっている。私はいったんバイクで走り出すと、際限なく、道のつづく限り、どこまでもどこまでも走り続けてみたくなる。行き止まりの道があれば、どうしても、その行き止まり地点まで行ってみないことには気がすまない。道の行き止まり地点のその先にある岬とか、滝にひかれるのはそのせいなのかもしれない。