ツタヤで『青春歌年鑑BEST30 1990』というCDを買ってきた。
高校生当時聞いていた歌ばっかりが並んでいる。JITTERIN’ JINNの「にちようび」とか、高野寛の「虹の都へ」とか、GO-BANG’Sの「あいにきて I.NEED.YOU!」や、光GENJIの歌が非常に懐かしい。ユニコーンの「働く男」や牛若丸三郎太の「勇気のしるし〜リゲインのテーマ〜」が入っている点が、バブル期の時代を象徴していると言わざるをえない。
月別アーカイブ: 2002年7月
『トパーズ』
村上龍『トパーズ』(角川書店)を読む。
不認可の風俗産業に従事する女性を主人公にした短編集である。迂遠な文体を用いており、また内容的にも意味の取りづらいところが多く、感想は述べにくい。作者自身一つ一つの作品のディテールよりも雰囲気を重視している。あとがきに次の文章を寄せている。
風俗産業に生きる女の子達は、ある何かを象徴している。
それは女性全体の問題でもあるし、また都市全体のことでもある。
彼女たちは必死になって何を捜しているが、時折それは、男や洋服や宝石やフレンチレストランという具体的な形になって現れ、またいつの間にか消える。
彼女達が捜しているものは、実はそういう具体ではなく、これから先、人類が存続していく上で欠かせない「思想」なのだと思う。
私は、彼女達が捜しているものが、既に失われて二度と戻ってこないものではなく、これからの人類に不可欠でいずれそれは希望に変化するものなのだと、信じている。
ここで作者が提出している「思想」なるものがいかなるものであるのか、即答することは難しい。しかし何となくは分かる気がする。それは「居場所」であろう。自己肯定をすることが難しい都市化の中で、いかに自他共に何らかの形で認められる自己像が形成出来るのか、というテーマではなかろうか。確かに女性はセックスやその他によって身体を嫌が上でも再確認できる。また男性もSMやアナルセックスによって身体レベルでの自己を確認することができる。実はそうした極めて形而下的な段階で発生する自己認識が問われてくる時代がやってくるのではないか、というのが私の感想なのだが、いかがであろうか。
『やがて哀しき外国語』
村上春樹『やがて哀しき外国語』(講談社)を読む。
外国語修得にともなう異文化ギャップ的な話かとずっと思っていたが、読んでみると意外に面白かった。特に小説や文壇雑誌からはなかなか伺えない村上春樹本人について細かく書かれていた。春樹氏のことを単なるフィッツジェラルドが好きな小説家と考えていたが、なかなか鋭い評論をする人である。それは次のような文章からも分かる。
とくに言い訳をしているつもりはなくても、つい「いや実はそれはね……」というような弁解がましいことを口にしている自分にふと気づいて苦い思いをすることは、日常の局面においてしばしばある。一人で好き勝手に生きていられる若いうちはともかく、大人になって広く深く社会とかかわりあい、知らず知らず複雑な人間関係の中に組み込まれると、まったく弁明・釈明なしに生きていくのはほとんど不可能になってくる。その段階でしかるべきエクスキューズをしていかないと現実的な損害を受けることもあるし、誤解されて深く傷つくこともある。(中略)しかしいったんこのような弁明サイクルに入ってしまうと、それこそ何から何まで山羊さん郵便局的な言い訳をしなくてはならない。どこまでが本当にエクスキューズで、どこからが本当には必要ではないエクスキューズかという境目がだんだん分からなくなってくるからだ。
春樹氏はここから小説家としての態度に話を展開させていくのだが、現在の私にとって引っ掛かる一節であった。春樹氏のいうエクスキューズのサイクルが、建前論であったり、プライドに転化したり、「大人」としての振る舞いへと変わっていくのであろう。
学校経営と学校図書館レポート No.3
関西大学の教育学の教授である尾崎ムゲン氏は『日本の教育改革』の中で、昨今の教育改革を次のように位置付ける。「産業化をすすめ個人主義を実現してきた近代の学校や教育制度は、いずれにしても個人の外に価値を認め、そこに向かって個人を「解放」するというシステムであったが、それを、個人を価値とし、個人の「自己実現」を支えるシステムへと改編しようという。130年の成熟の過程を経て、学校や教育制度を従来型の産業化や個人主義と切り離し、新しい価値と結びつけうる時代に入ったということだろう。」
苅谷氏も指摘するように、今年度より始まった週5日制や「生きる力」の教育、「総合的な学習の時間」を、従来の教育観から眺めてもうまく捉えきれないだろう。それは私達が受けてこなかった、自己肯定観に根ざした教育なのだ。尾崎氏も指摘するように私達は自己を取り巻く「他者」を肯定する価値観の中で教育を受けてきた。
NHK教育テレビで友人の大切さが喧伝され、先生や親に感謝する心、国家を敬う気持ちなどが教育の中に持ち込まれて議論を呼んだ。しかし現在の教育改革の大きな点は、他者とつながる「自己」を肯定しようというところから議論が出発しているということである。一見すると価値の多様化、個性尊重の教育だと位置付けてしまうが、自己の存在の在り様にまず価値を置こうとする価値の「原点化」を目指す教育の方向性の中に、全ての改革が仕組まれているといって良いだろう。
そうした改革の方向性を認識するならば、まずは生徒自身による自分探しのベースキャンプとなるべき、学校図書館の整備が求められてくる。司書教諭自身が、授業の単なる補完的な機能や、調べ学習への対応といった従来の教育観に根ざした図書館運営ではなく、自己肯定へ至る自己分析を支える場としての図書館のあり方を模索していくべきではないだろうか。遠い道のりではあるが……。
参考文献
尾崎ムゲン(1999)『日本の教育改革』中公新書
『日本語練習帳』
大分前に買って、途中で投げ出していた大野晋『日本語練習帳』(1999・岩波新書)をつい先日読み終えた。
日本語の持ついい加減さを改めて実感した。“が”と“は”の違いや、読点の打ち方など、ポイントポイントは面白かったので、うまく授業の雑談の中で活かしていきたいと思った。