日別アーカイブ: 1999年11月1日

「立場」?

昨日、30日に発売されたマックOS9を購入し早速入れ替えてみた。パワーPC専用なので、動作が素早く快適である。私のパソコンはマックOS10には対応していないので、アップデートはこのOS9が最後になりそうだ。

マル共連という共産「趣味」者向けのホームページの掲示板に私が過去に作っていたページを探している輩の投稿が載っていた。
http://marukyo.cosm.co.jp/BBS/
マスク&サングラスのおじさんが完全にチェックしているというのに、私の個人情報につながるアドレスを書くのは止めて欲しい。

下記の投稿に関して:
学生という立場性の規定に関しては議論する必要がありますね。そもそも「自由な」学生の立場というものはありえません。そのなかで学生という立場の捉え方に関して他者と差異があるのなら、それはやはり議論によって補っていくものであって、「人間関係が悪くなる」ということで逃げる種類のものではありません。大学や学生というものの現日本社会における規定性に関しては、私自身も結構考えましたし、ホームページの資料にも載っているはずです。そして勿論、そうした「現実」に規定された今日の学生像を前提として話はしているつもりです。そうした現実の社会構造から規定されない学生像についてうんぬん議論することは無駄であると考えます。つまりN.Hさんのおっしゃる「一致点は見つけにくい」ということを前提にして、その先の「相違点」を越えて「妥協点」を探っていく作業を結構やってきた気がします。何を伝えたいのか私自身既に大学という現場を離れているのでよく分かっていません。


99/11/01 23:08:32 N,H
さらにつっこみ

自分というと、自己同一性identityなんて言葉もあり ますが、先生の場合は自己規定とでも言った方がいいかもしれませんね。例えば、学生とはこうするべきであるとの理念が前提にあって、「自分は何者であるか」と問う事は、その理念に自分を一体化させる事であると。つまり、学生はこうすべきであるというルールを自分で自分に課するという事ですね。
ですが、あまり自分のルールにこだわりすぎると人間関係が悪くなる気がします。「学生はこうあるべき」というのは、いろいろな人がそれぞれの立場から違う事を言っているので、一致点が見つけにくいと思います。それ以前に、日本人の大多数が自分は何者であるか問わないのだとすれば、それを問う事自体が既に集団 からはみ出している事になるのではないでしょうか。それこそ「ヤバイ人」です。

NR出版会

 [http://www.kinokuniya.co.jp/04f/d05/4_050001.htm]
昨日東京新聞でNR出版会というものがあることを知った。ノンセクトラジカルの略だそうだ。社会評論社や柘植書房など一部界隈ではメジャーな出版社が加盟している。今その30周年ということで記念販促をやっているらしい。しかし社会評論社がノンセクトを標榜していいのか? 季刊クライシスはなかなかいい記事が多かったが。反天連系の集会に出店を出す商魂には納得がいかない。


追加:「NR出版会公式サイト」より転載
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 ▫️ NR出版会公式サイト ▫️
 
NRとは?

 1969年8月、当時、社歴5年以下、社員10名以下の小出版社が集まって「NRの会」は誕生した。1968年からはじまった全世界的な学生反乱と60年文化が開花するなかで誕生したNRは、反骨・反体制・反権力の色彩が強い出版団体であり、NRとは、ノンセクト・ラディカルの頭文字をとったものと伝えられている。
 1970年2月、〈現代思想選書〉セットが組まれ、書店で好評を得た。70年代には、宇井純『公害原論』(亜紀書房)、荒畑寒村『谷中村滅亡史』(新泉社)、永山則夫『無知の涙』(合同出版)など、大きな反響をよぶ本が続々と会員社から刊行された。ウーマン・リヴが結集した『女・エロス』(社会評論社)の定期刊行がはじまったのも70年代である。
 大手出版社に先駆けて、こうした公害問題、エコロジー、フェミニズム、人権問題など、新たな社会思想の分野における問題提起をなす出版物が刊行された。
 80年代に入り、技術と人間(82年)が加入した。月刊誌『技術と人間』は、現代科学技術、とくに核文明への鋭い批判を展開した。1983年9月、三省堂本店と協力して「われら地球派・1983年エコロジスト宣言」フェアを実施し、これを機に主要書店への環境問題コーナー設置を働きかけた。戸村一作『小説・三里塚』(亜紀書房)、安藤登志子『北富士の女たち』(社会評論社)、山口武秀『権力と戦う住民たち』(柘植書房)など、70年~80年代の全国の住民運動の記録も数多く刊行された。
 金蒼生『わたしの猪飼野』(風媒社)、吉岡増雄『在日朝鮮人と社会保障』(社会評論社)、山本リエ『金嬉老とオモニ』(創樹社)など、在日外国人の人権や民族文化をめぐる出版分野も活発になされた。現在、この分野では新幹社が積極的な出版活動を行っている。
 こうした各社の出版活動と並行して、NRは、広告・販売促進・用紙の仕入れなどの共同化をはかり、コスト削減を目的に1976年、NR出版協同組合として法人化した。出版経営のあらゆる業務、印刷、倉庫、金融など、協業化によって加盟社の経営改善に役立てた。しかし、90年代に入り、長期大不況とともに会員社が経営危機に見舞われ、また制作過程の多様化などのため、1996年、協同組合を解消し、販促活動を主軸とする出版団体として再出発した。
 40年の歴史のなかで、加盟社は幾度か入れ替わった。現在の会員社は、亜紀書房、インパクト出版会、現代人文社、新幹社、新泉社、柘植書房新社、同時代社、七つ森書館、日本経済評論社、風媒社の10社である。
 現在、出版業界も大きく変容しているが、人権、教育、環境、司法制度、福祉などをめぐる社会問題をはじめ、アジアを軸とする国際情勢やノンフィクションのほか、文化、歴史、思想をめぐる主張など、NR各社は、多様な分野で出版活動を行っている。
 NR創立以来、「全共闘」「管理社会」「原発事故」「天皇制」「反戦」「マイノリティ」「セクシュアリティ」など、時代の要請するさまざまなテーマで、ブックフェアを実施してきた。1999年には、ブックフェア「これが元祖インディーズだ!」を開催。NR30年の軌跡をあますところなく映し出し、各社の持続する出版の原点を示すものとなった。
 2009年8月、NRは創立40周年を迎えた。NR出版会は、これからも出版を通して社会に向け“問い”を発し続ける。

質問に答えて

「で問題は、諸君自身の「自分」とは何かということにある。そこが話の分れ目だ。」というのは私の卒論にある通り、戸坂潤というマル哲の学者の言葉です。早稲田の中央図書館に戸坂潤全集があるので覗いてみてはどうでしょうか。私の卒論のあとがきに書きましたが、私自身の立場性というものへのこだわりのあらわれです。

確か、2年位前にN.Hさんには言ったことがあるかと記憶してますが、私がこの言葉を多用するのは、戯作者の寺山修司のことが頭にあるからです。昔30年くらい前、ベトナム戦争の頃、寺山修司が新宿で通行人にインタヴューを行いました。

「あなたは米軍の攻撃をどう思いますか」
「あれはひどいねえ」
「では枯葉剤の使用はどう思われますか」
「話にならないねえ。人間をどう思ってるんだ」
「最近の学生運動の高揚はどうお考えですか」
「あれもポリシーがないねえ」
とのやりとりの後に、寺山は「では、あなたはいったい何者ですか」と質問を加えました。そうするとほとんどの通行人は「いえ名乗るほどのものではありません」とか「単なるサラリーマンです」「通りすがりのものです」といって逃げたそうです。

つまりほとんどの通行人は一見もっともらしいことを言っても、行動には決してつながらない空虚なことを吐くだけだったのです。やはり行動につながるためには一体自分とは何者なのか、そこをはっきりさせなくてはいけません。

今、高校教師だから、ベトナム戦争に対しては授業の中で戦争の危険性を訴える。いやそれ以前に労働者なのだから、労働運動の中で反戦運動を作っていく。今学生だから、大学の中で、運動を創っていく。やはりそのような現在の立場性に根差して発言をしないとそれは単なる机上の空論になってしまいます。

エンゲルスのいい言葉があったではないですか、手元に資料がないのですが、「経済学者は単に経済分析をしていればいいというものではない。行動してこそ真の経済学者なのだ」というような言葉がありました。自分の立場性を分析しこだわるからこそ逆に運動の方向性も見えてきます。まあ、それがノンセクトラジカル的な考え方なのですが、戸坂潤の言葉もその点を要約したものです。

ちょうど去年の夏に、N.Hさんにも来てもらった秋の3地下祭の事前打ち合わせのレジュメのフロッピーが見つかりました。その一部が上記レジュメです。何となく分かっていただけるでしょうか。
また御連絡ください。

 

99/11/01 23:04:55 N,H
質問

いきなりですいません。
先生はよく『で問題は、諸君自身の「自分」とは何かということにある。そこが話の分れ目だ。』という言葉を引用しますが、これはどう言う意味なのですか?