「で問題は、諸君自身の「自分」とは何かということにある。そこが話の分れ目だ。」というのは私の卒論にある通り、戸坂潤というマル哲の学者の言葉です。早稲田の中央図書館に戸坂潤全集があるので覗いてみてはどうでしょうか。私の卒論のあとがきに書きましたが、私自身の立場性というものへのこだわりのあらわれです。
確か、2年位前にN.Hさんには言ったことがあるかと記憶してますが、私がこの言葉を多用するのは、戯作者の寺山修司のことが頭にあるからです。昔30年くらい前、ベトナム戦争の頃、寺山修司が新宿で通行人にインタヴューを行いました。
「あなたは米軍の攻撃をどう思いますか」
「あれはひどいねえ」
「では枯葉剤の使用はどう思われますか」
「話にならないねえ。人間をどう思ってるんだ」
「最近の学生運動の高揚はどうお考えですか」
「あれもポリシーがないねえ」
とのやりとりの後に、寺山は「では、あなたはいったい何者ですか」と質問を加えました。そうするとほとんどの通行人は「いえ名乗るほどのものではありません」とか「単なるサラリーマンです」「通りすがりのものです」といって逃げたそうです。
つまりほとんどの通行人は一見もっともらしいことを言っても、行動には決してつながらない空虚なことを吐くだけだったのです。やはり行動につながるためには一体自分とは何者なのか、そこをはっきりさせなくてはいけません。
今、高校教師だから、ベトナム戦争に対しては授業の中で戦争の危険性を訴える。いやそれ以前に労働者なのだから、労働運動の中で反戦運動を作っていく。今学生だから、大学の中で、運動を創っていく。やはりそのような現在の立場性に根差して発言をしないとそれは単なる机上の空論になってしまいます。
エンゲルスのいい言葉があったではないですか、手元に資料がないのですが、「経済学者は単に経済分析をしていればいいというものではない。行動してこそ真の経済学者なのだ」というような言葉がありました。自分の立場性を分析しこだわるからこそ逆に運動の方向性も見えてきます。まあ、それがノンセクトラジカル的な考え方なのですが、戸坂潤の言葉もその点を要約したものです。
ちょうど去年の夏に、N.Hさんにも来てもらった秋の3地下祭の事前打ち合わせのレジュメのフロッピーが見つかりました。その一部が上記レジュメです。何となく分かっていただけるでしょうか。
また御連絡ください。
いきなりですいません。
先生はよく『で問題は、諸君自身の「自分」とは何かということにある。そこが話の分れ目だ。』という言葉を引用しますが、これはどう言う意味なのですか?