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『教養のためのブックガイド』

小林康夫・山本泰『教養のためのブックガイド』(東京大学出版会,2005)を読む。
『知の技法』から続く東大教養学部の教員による学問の入門書シリーズである。
では、いったい東京大学の教養学部が目指す「教養」とは何なのか。動物行動学が専門の長谷川寿一氏は次のように述べる。

いうまうでもなく、教養を持つことに、即時的な効用があるわけではありません。人間がチンパンジーグループの一員だと知ったところで、それを知らないときと比べて、生き方がすぐに変わるということはありません。

では、雑学と教養はどこが違うのか。明確な線引きは難しいのですが、雑学は個別の知識の集合であるのに対して、教養は普遍的な知の体系、あるいはそれを目指す姿勢のことだと思います。何かを知っているだけの雑学では、評価や意思決定を要しませんが、教養には物事に対してそれを記述するだけでなく、それをどう評価付け、判断するかが問われます。シャークスピアの全作品の名前を列挙するだけならば雑学の域を出ていないかもしれませんが、それぞれの作品を関連付け、その背景や意義を説明できる知識(あるいはそれを知りたいという姿勢)はたしかに教養と呼べるでしょう。

同じく長谷川寿一氏が指摘しているのだが、人間の知的能力や精神は10万年前のアフリカで生活していた頃からほとんど進化していないことが分かっている。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは遺伝子が異なり、生物学的な進化をしているが、10万年前も現在も同じホモ・サピエンスで、同じ遺伝子を受けて継いで生まれているのである。でも、私たちは10万年前から知的能力が格段に進化していると勘違いしている。生まれつきの能力は同じなのである。違いは後天的な成長や学習に拠るものである。その一点だけ分かっただけでも、本書を読んだ価値があった。

『上野千鶴子が文学を社会学する』

上野千鶴子『上野千鶴子が文学を社会学する』(朝日新聞社,2000)を読む。
かなりボリューミーな内容であった。坪内逍遥や二葉亭四迷の作品分析に始まり、有吉佐和子や佐江周一の作品における核家族論、江藤淳、永山洋子まで幅広い。

文学作品を例に取りながら、女性が「女性性」に閉じ込められている事実を一つ一つ分析しながら、そうした「女性性」からの解放を訴える。

しばしば誤解されているようだが、(ウーマン)リブは「新左翼の女性版」では決してない。(中略)1969年1月に安田講堂が陥落し、全共闘運動が最期を迎えたあと、(中略)挫折した新左翼の運動家たちが、女と日常へと回帰しようとしたときに、「日常」そのものを戦いの場として、女たちの「愛と性の革命」は始まったからだ。

また、現在の小説でも女性のセリフには、「あたし」「〜わ」「〜よ」といったように、日常会話では使わない言い回しが用いられる。著者は「男言葉を標準化した近代国語の中では、女言葉は回りくどい『しるしつき』の言語にほかならなかった」と述べる。

また、『恍惚の人』や『黄落』などの老人介護文学を取り上げ、94歳の老父が80代の老女と恋仲になる場面を通じて、次のように述べる。

他人なら寛大になれることでも、家族だから許せないこともある。近代家族とは、親が子に、子が親に、性的な存在であることを許さない装置でもある。人生の最後に、親が親であることから解放してあげるためには、他人の手が入ることもまたよしとしなければならない。

私は知らなかったのだが、国語の教科書にも登場する尾崎放哉の紹介が興味を引いた。「せきをしてもひとり」「墓のうらに廻る」の句で有名な尾崎放哉は、厭世的なダメ人間のような勝手なイメージがあったが、実は一高・東大を出て保険会社のエリート社員となり、朝鮮や満州をわたった後、内地に引き揚げ、妻と別れて無一文になり一燈園に入り、仏教に帰依し、42歳で亡くなるという波乱万丈な人生を送っていたのだ。

 

『歌謡曲』

高護『歌謡曲:時代を彩った歌たち』(岩波新書,2011)をパラパラと読む。
歌謡曲の歴史は、1928年に発売された「波浮の港」と翌29年の「東京行進曲」に始まる。戦後になって「リンゴの唄」を皮切りに、和製ポップスが華開いて行く。

聞いたことのある歌手や曲が次々と紹介され、時代に連れて日本の歌謡曲が発展していく流れが丁寧に書かれている。「USA」以降、カヴァー曲のヒットは思い当たらないが、洋楽のカヴァー曲も日本の歌謡曲のメインストリームをなしている。

また、曲調はリズムやメロディも様々変化するが、ヒットした歌の歌詞は戦前の「東京行進曲」から現在まで、七五調もしくは五七調となっている指摘は面白かった。

もしもし かめよ かめさんよ 7・5
せかいの うちに おまえほど 7・5
あゆみの のろい ものはない 7・5
どうして そんなに のろいのか 7・5

残酷な 天使のように 5・7
少年よ 神話になれ 5・7
残酷な 天使のテーゼ 5・7
窓辺から やがて飛び立つ 5・7
ほとばしる 熱いパトスで 5・7
思い出を 裏切るなら 5・7
この宇宙を 抱いて輝く 5・7
少年よ 神話になれ 5・7

『狂牛病』

中村靖彦『狂牛病:人類への警鐘』(岩波新書,2001)をパラパラと読む。
イギリスやフランス、ドイツで狂牛病が話題になっていた頃に刊行された本である。この後2003年にアメリカで狂牛病が広がり、吉野家が休業に追い込まれることになる。

狂牛病とは牛や羊のような反芻動物の屑肉かのら動物性飼料を、同じ反芻動物に与えることで脳細胞が海綿状に変性し、異常行動や運動失調を来たし、やがて死に至るという病気である。人間に感染すると変異型クロイツフェルト・ヤコブ病を発症し、1年以内に100%死にいたる病気となる。
最後に著者は次にようにまとめる。

狂牛病の教訓の一つは、家畜飼育のあり方へん反省である。
まず餌については、共食いの危険と反芻動物への動物性飼料の問題が浮かび上がった。牛とか羊の反芻動物から製造した動物性飼料ー肉骨粉を、再び同じ反芻動物に与えるやり方は、明らかに共食いであった。(中略)牧草とかワラのような、繊維質の多い餌を与える方が、反芻動物の健康にはよいのであって、消化が良い肉骨粉は邪道である。どうしても屠畜場から出る屠肉や骨を再利用しなければならないとの思惑が先行した結果の肉骨粉であって、牛にとっては迷惑な話であった。

その肉骨粉は、液状にして生まれたばかりの子牛にも与えられた。母牛から引き離した後の母乳の代わりになったのである。(中略)(母牛の)生乳は収入源として出荷され、子牛には人口の動物性飼料を、というのは、いささか経済効率に偏り過ぎたやり方と言わざるを得ない。

人間でも共食いによって、脳が海綿状に変性するクールー病を発症することがあり、共食いの危険性、経済効率を追い求めた家畜のあり方について理解した。

『日本恐竜探検隊』

真鍋真・小林快次編著『日本恐竜探検隊』(岩波ジュニア新書,2004)をパラパラと読む。
タイトルにある通り、日本国内で発見された恐竜の化石について、地図入りで詳しく解説されている。特に1億5000万年前以降に堆積した、富山・石川・福井・岐阜の県境にまたがる手取層群については丁寧に説明されていた。

私はこの手の生物分化的な話が苦手なのだが、恐竜の系統や生息域、進化の話が続き、正直つまらなかった。生物学の学問としては正しいのだろうが、恐竜の持つ魅力が台無しになってしまわないか?