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東京都知事選

本日東京都知事選の立候補者が告示された。東京新聞では、3選を目指す現職石原真太郎氏と、前宮城県知事浅野史郎氏、共産党推薦吉田万三氏、建築家黒川紀章氏、ドクター中松氏ら4人の新人候補との対決がクローズアップされている。しかし、実際の選挙には泡沫候補を含めて14人も名を連ねているのだが、マスコミからは蚊帳の外に置かれている。
しかし、「その他」の中に、『僕の高校退学宣言』の著書で有名(?)な外山恒一氏が立候補していた。90年代半ば頃は新左翼崩れのアナーキスト系活動家と思っていたが、ホームページを卒読する限り、現在では国家権力に断固抗するファシストを目指すということだ。現職石原真太郎氏が「東京から日本を変える」とスロガーンにしているが、もし万が一外山氏が都知事になったら、彼こそ確実に東京は変えてしまうであろう。
果たしてこの先、一体、彼に何人の人たちが賛同の意を表明するのか注目していきたい。

□ 前衛政治家・外山恒一ブログ □

本日の東京新聞夕刊

本日の東京新聞夕刊に、知的障害を抱えた二男を殺害した72歳の父親の裁判の悲痛な記事が掲載されていた。
新聞記事によると、被告の男性は定年後もローンの返済のため働き、日常生活にも常時介護が必要な先天性の脳性まひを抱える32歳の二男の面倒をみていたということだ。しかし、昨年7月に日常生活や授産施設への送迎などの面倒をみていた妻が末期ガンで入院したことで、「家内がいなくなったら、二男は一人では生きていけない。私も年でこの先長くない。二男を殺して自分も死のうと思った」と考え犯行に及んだしまったようだ。当日は朝から二男とテレビを見て、昼食はラーメンを作り一緒に食べ、午後、長女の不在を確認してから二男の胸にナイフを突き刺したそうだ。犯行時の父と息子の模様を思い浮かべるだけで胸が詰まる。二男は「痛いよ、父ちゃん」とつながった言葉を話したことに被告の父親は驚き、「後から行くから待ってて…」と答え自分の胸も刺したとのこと。

被告は最終意見陳述で「二男は私の半分も生きていない。これからいいこと、楽しいことがたくさんあったと思います。子供たちの幸せをめちゃめちゃにした父親は失格です。一生償っていきたい」と述べた。
検察側は「介護の悩みから逃れるための安易で短絡的な犯行」と懲役十年を求刑したとのことだが、果たして本当に責められるべきは当の父親であろうか。貧困な福祉行政しか展開できていない市や県の責任は? そうした市長や県知事、議会を選択している私たちはどうなの?

「試される憲法」

本日の東京新聞朝刊に「試される憲法」という連続コラムに東大大学院教授の上野千鶴子さんの意見が寄せられていた。
人権無視を慣例化する象徴天皇制の一条、また軍事力による平和維持を目指す九条改正含めて、はたして憲法が国民を守るに値するものか含めて議論し、選び直す「選憲」の立場を唱える。「天皇制を維持するためにどこまでコストをかけるのか。戦後60年たって共和制はあらためて考えるべき選択肢だと思います」と憲法そのものの根本意義を読者に問いかける。

「試される憲法」と同じ紙面に、岡山のハンセン病国立療養所「長島愛生園」内にある教会の大嶋牧師が、聖書にある「らい病」(ハンセン病の旧称)の記載は誤訳だとして、出版社に働きかけ聖書の記述を改める活動を続けているとの記事が載っていた。
「らい病」と訳されている「ツァラアト」は「汚れているので、住まいは宿営の外でなければならない」と隔離を示唆する一節が聖書にあり、過去、罪の象徴とされてきた。大嶋牧師は「社会的差別を醸成したのは国の法や政策だけではない」、「誤訳も差別や偏見の遠因」だと呼び掛ける。

この二つの記事が同一の紙面に掲載されているのは東京新聞編集サイドの計略だろうか。もしそうだとしたら過激な紙面編成である。

「障害者自立支援法」

本日の東京新聞朝刊に、今年の4月より施行された「障害者自立支援法」の問題点を指摘する記事が掲載されていた。「自立支援法」はこれまでの障害者保護から、ノーマライゼーションに則った障害者の自立を促すものだと厚労省は宣伝するが、実態は予算もやる気もない市町村に丸投げしている形だ。結果、障害者の自立どころか、一割負担ルールに耐えられずサービス利用を手控えざるを得ない利用者が激増し、果ては通所施設で働く職員の人件費がカットされ、福祉業界そのものが地盤沈下しているというのだ。

障害者自立支援法の第3条では「すべての国民は、その障害の有無にかかわらず、障害者等がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営めるような地域社会の実現に協力するよう努めなければならない」と定め、市町村に対しては第2条にて「障害者が自ら選択した場所に居住し、又は障害者若しくは障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、当該市町村の区域における障害者等の生活の実態を把握した上で、公共職業安定所その他の職業リハビリテーションの措置を実施する機関、教育機関その他の関係機関との緊密な連携を図りつつ、必要な自立支援給付及び地域生活支援事業を総合的かつ計画的に行うこと」と定めているが、実態はお粗末な限りである。
障害者自立支援法の理念はあくまで生かしつつ、現状改善を目指すべきだと考える。そのためには事業所への報酬の一割負担ルールを早急に見直し、施設への補助を増額し、財政的裏付けのある自立政策をとるべきであろう。

「ぴったり感」

本日の東京新聞朝刊に、女子少年院法務教官を勤めた魚住絹代さんの「ぴったり感」と題した思春期の子どもが使う言葉に関する話が載っていた。なるほどと頷くところも多く興味深かった。

子どもたちは本当に、深い意味なく「ノリ」で、「キモい」「うざい」「ムカつく」といった言葉を日常的に使う。黒板の字が見えないとき「うざ」。お弁当のおかずがこぼれたら「キモ」。携帯忘れたら「ヤバ、ムカつく」。
本来の言葉の意味や用途とは違うことに、子どもたちの言葉の感覚がまひしていると感じ、同時に、物事の受け止め方が両極端に単純化していることにも考えさせられる。子どもたちは、ちょっといいと思うと、「サイコー」「めっちゃイイ」と称賛するが、ちょっと違うと「キモイ」「サイアク」と全否定してしまうのだ。
基準は「自分」。自分の予想や思い、好きなこととぴったりであれば、「サイコー」と盛り上がるが、ちょっとでも自分と違うと違和感を覚え、切り捨ててしまう。さっきまでの「サイコー」「親友」も、瞬時に「キモい」「サイアク」「絶交」となってしまうのだ。そして、どちらでもない繊細なニュアンスは、ひとくくりに「微妙」という言葉で片付けられてしまう。

魚住さんは、そうした子どもたちの言葉の同調圧力の中で、大人以上に違いを許さない雰囲気が子どもたちの中に醸成され、居場所を見つけられない子どもがいると心配する。周囲に合わせてテンションを高くし、笑顔で周りの雰囲気を壊さないように必要以上に気を遣わざるを得ない子どもたちが増えていると指摘する。そして「安心して育ち、学び合える集団をつくるためにも、人との付き合い方、物事の受け止め方、気持ちの伝え方などのソーシャル・スキルを育む取り組みが必要である」と述べる。