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本日の東京新聞夕刊から

本日の東京新聞夕刊一面のコラムに、三菱東京UFJ証券チーフエコノミスト水野和夫氏の文章が寄せられており、興味深く読んだ。

現在のゼロ金利解除の条件としてデフレからの脱却が必要で、再び物価が下落している今、利上げを急ぐべきではないという現在の政府や日銀の考え方に対して、著者は、ゼロ金利による円安誘導による従来の加工貿易を基本とした日本の社会構造そのものに異を唱えている。

日本は1995年9月に、公定歩合を0.5%に引き下げて以来14年以上、事実上のゼロ金利が続いている。本来ゼロ金利下であれば、市中の通貨供給量が上昇し、インフレになるというのが経済の公式であった。しかし、日本の消費者物価指数は98年度から下落に転じ、09年度上期は1.7%減とマイナス幅が拡大されている。食品とエネルギーを除くと99年度から10年間も下落が続いているという。

ゼロ金利がもたらす円キャリー取引によって海外へ流れ、金融商品化した原油などの資産価格が高騰し、日本から所得が95年以降88兆円も流出したという。そこで筆者は、ゼロ金利でデフレから脱却するのは困難であるとし、デフレ下でも利上げが必要だと主張する。

また、同じ夕刊の文化欄で、作家高村薫さんは、2007年に日本の相対的貧困率が、経済協力開発機構(OECD)加盟の30カ国中、4番目に高い15.7%だったことに触れ、貧困率を下げることが鳩山政権の当面の急務であると述べている。そして、家計への直接給付や失業者支援の拡大など、生産性とすぐに結びつくわけではない予算の再配分こそが今後の国民生活の維持に不可欠なものだと結論づける。

二者の意見を考え合わせるに、現在のゼロ金利政策は、決して庶民の生活を潤すものではなく、ほんの一部の輸出産業型大企業を擁護するものでしかない。やはり、「異常」なゼロ金利は早々に解除し、緩やかに円高を促していくことで、赤字国債の金利を抑え、エネルギーや食品の値下げといった形で、庶民への還元を図るべきであろう。

本日の東京新聞夕刊から

本日の東京新聞夕刊の文化欄は、行政学を専門とする牧原出東北大教授の「4年単位で政権評価」と、哲学者梅原猛氏の「宰相の条件」と題する2つの対照的な内容のコラムが載っていた。

牧原氏は、今回の政権交代について「しばしば鳩山内閣の閣僚の発言がもたついている理由に、マニフェストの不完全さが挙げられるが、閣僚経験の不足こそが真の原因である」と述べる。また、民主党が政権入りしてから実現不能と判明した公約について軌道修正を図っていることについて、「これを認めなければ、政権交代を認める意味がない」とする。そして「衆議院の任期一期四年を単位に政権を評価する」ことが必要だと主張している。

一方で、梅原氏は、一国の宰相の条件として次の3点を挙げている。

  1. 世界の文化、特に自国の文化についての深い理解に裏付けされた品格を備えていること。
  2. 確固たる政治理念をもち、それを自分の言葉で説明できること。
  3. その理念を内外の政治情勢を十分に顧慮しつつ果敢に実現する意思と勇気をもっていること。

そしてこの3つの条件を十分に備えていた歴代首相として中曽根元首相を評価している。そして、その返す刀で、鳩山首相は、「友愛」という「安っぽい近代主義の謳歌」に過ぎない政治理念を掲げており、改革を断行するには、③の条件に矛盾すると結論づけている。最後に「鳩山首相には『友愛』というモットーを捨て、強い意志とをもって自己の政治理念を実現する勇気ある宰相になってもらいたい」と注文を付けている。

私は牧原氏の意見に賛成である。9月に政権交代が実現してから僅か3ヶ月である。たったの3ヶ月で、鳩山政権を評価すること自体が間違っている。結果を具に検証しないうちから一国の宰相の是非を判じるという愚挙は、政治改革の真の主体である国民を蔑ろにした見解であると思う。

東京新聞夕刊から

本日の東京新聞夕刊の文化欄に、南北アメリカ文学研究者で明治大教授の管啓次郎の文章が掲載されていたラテンアメリカやカリブ海諸島、「マグレブ」と呼ばれる北アフリカ諸国の「クレオール文学」を紹介している。彼の近著『本は読めないものだから心配するな』の中で、読書について次のように述べる。

 本の内容など忘れてもいい。でもそこにはさまざまな文化や知が収納されており、それが引っかき傷のように残ることで社会や個人の記憶の水脈につながってゆく。また、読書は方向を転換して今とは違った人生を歩み出すことも促す。

□ 管啓次郎公式ブログ □

東京新聞夕刊から

今日の東京新聞夕刊に、京都市立堀川高校長の荒瀬克己さんのインタビュー記事が掲載されていた。
堀川高校は堀田力氏や葉加瀬太郎氏などを輩出した伝統校である。荒瀬氏が98年に教頭として赴任して以来、生徒がテーマを決めて研究、論文にまとめる授業を取り入れる改革が始まり、その結果、最難関大学に数十人の合格者が出るようになり、「堀川の奇跡」と呼ばれている。
発言の一つ一つが大変印象に残った。

高校は大学の予備校ではないという反発もあった。高校は義務教育から続く教育の完成でもある。集団の中で個を磨くのは高校まで。高校三年の最後のホームルームは人生で最後のホームルームでもある。
例えば堀川では文化祭を三年生含めて二カ月も準備をしてやる。生徒たちはいいものをつくろうと毎日遅くまで残る。そうした集団の中で個が成長していくことにつながる。行きたい大学があればそこへ行って勉強するのも大切な幸せで、教師としてはかなえてやりたい。結局よく学びよく遊ぶのが大切なのです。

生徒に接するときには何を考えていますか。
生徒には生徒の都合があるということ。生徒の価値観、考えを無視する形で指導しても納得してもらえない。そして生徒と話をする。問いかけが大切。生徒は本人も知らない力を内包している。それを気づかせるきっかけの一つが問いかけ。もうひとつは大人の姿勢を見せること。どういう場面でどういう判断をするか、生徒に見られている。それを意識しないで生徒に接するのは怖いですね。

堀川高校の常任講師のあと、市立工業高校に国語教師として勤めていた時のこと。古典の文法の時間に生徒から「これやってなんぼになるんですか」と聞かれて、きちんと答えられなかった。工業高校なので機械の勉強などは将来の役に立つ。文法の授業はそうした意味では役に立たない。「知らないことを知るのはいいことだ」と言うのが精いっぱいだった。今なら違う答えをする。「学ぶとは、分からないものに立ち向かう方法を身につけることだ。文法の授業もその方法の一つだ」と。

本日の東京新聞夕刊

本日の東京新聞夕刊に、文化人類学者で立命館大学教授を勤める渡辺公三氏の、今月4日に亡くなったフランスの構造人類学者クロード・レビストロースについての文章が掲載されていた。レビストロースの言葉が印象に残った。

…さまざまな社会の豊かさと多様性という、記憶をこえた昔からの人類の遺産のもっとも素晴らしい部分を破壊し、さらには数え切れないほどの生命の形態を破壊することに没頭しているこの世紀においては、神話がしているように、正しい人間主義は、自分自身から始めるのではなく、人間の前にまず生命を、生命の前には世界を優先し、自己を愛する以前にまず他の存在に敬意を払う必要がある、というべきではないだろうか。