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国民的イベント「金環日蝕」

 本日の東京新聞夕刊の一面の写真をスキャンしてみたら、絵画風になってしまった。

本日の一大イベントとなった金環日蝕だが、通勤途中のコンビニの駐車場から眺めることができた。
ハレー彗星や何とか流星群の時も曇りやら何とかできちんと肉眼で捉えたという経験は未だない。しかし、今回ばかりは絵に描いたような金環を来迎することができた。
太陽と金星が並ぶ自然の怪異よりも、数秒単位で惑星の移動を計算してしまう人間の智恵に改めて驚いてしまう。
地震も日蝕のようにプレートの変動を計算式に当てはめることで、数秒単位で予知できればよいのだが。

東京新聞書評欄から

本日の東京新聞の書評欄に、文芸評論家の川田宇一郎氏が著書と一緒に、顔写真入りで紹介されていた。
「宇一郎」というあまり一般的でない名前のところで、斜め読みしていた目線がふと止まった。私の記憶に間違いがなければ、小学校の3〜5年生の頃に仲良かった友達と同じ名前である。もちろん年齢も同じである。同志社大学卒業ということだが、私の記憶の川田君も小学校6年生に上がるくらいに関西の方へ引っ越していった。写真をよ〜く眺めると、ウーパールーパーやエリマキトカゲが好きだった少年のかすかな面影を感じてくるのだが。果たして真相やいかに!?

「鈍・鈍・楽」

本日の東京新聞朝刊1面のコラム「筆洗」に、作家の城山三郎さんが人間関係に悩み学校に行けなくなった孫娘に送った「鈍・鈍・楽」という言葉が紹介されていた。
「鈍・鈍・楽」なる不思議な言葉は、次のような意味らしい。

鈍=人間関係に気を使わない。
鈍=まわりが何を言っても気にしない。
楽=そうすれば、どんどん気が楽になり楽しくなる。

次女の井上紀子さんは自著の中で、「父は自分にも言い聞かせるように、周囲の目、声は必要なものだけキャッチして、あとはケ・セラ・セラ(なるようになる)でいけばよいと、優しく諭してくれた」と書いている。

「人間関係に気遣い、周囲への配慮を忘れない」という付き合い方が日本の道徳であるが、そうした滅私的な立ち振る舞いは多大なストレスを抱え、いつか字のごとくに身を滅ぼしてしまう。

まずは、自分の幸せ、自分の生き甲斐、仕事と自分の時間、家族、趣味とのバランスを大切にしながら、そこから生まれた余裕を周囲への気配りとできるような生活をめざしたいと思う。「鈍・鈍・楽」な生き方、まずは参考にしたい。

夕刊コラム「ギャップイヤーは日本には不向き」(再掲)

古紙回収に出してしまった、2月16日付けの東京新聞夕刊がようやく手に入ったので、改めて早稲田大学教授石原千秋氏の「ギャップイヤーは日本には不向き」と題されたコラムについて補足を加えつつまとめてみたい。改めて目を通すと、「ギャップイヤー」と「秋入学」の明らかな読み違えをしていたことに気付いた。

著者は本論の中で、東京大学主導で検討されている秋入学を大学だけが実施すると、入学前と卒業後の半年の2回、計1年間のギャップイヤー(空白期間)が生じてしまうことを問題視している。そして、秋入学を実施するならば、ギャップイヤーが生じないように、幼稚園から大学院、企業官公庁の秋採用まで含めて、国家規模で一気に教育全体の時間軸を変えなくてはならないと述べる。

イギリスを中心に定着しているギャップイヤーであるが、イギリスでは、年間の学費が40万程度であり、原則、学生は政府から融資を受け、卒業後に収入が一定のレベルに達してから長期返済する仕組みになっている。こうした奨学金制度が確立していない日本で、前後1年間もの空白期間を留学やボランティアなどで有効に活用できるのは教育費にかなり余裕のある富裕層に限定されてしまう。多くの学生は「社会経験」という錦の御旗のもと、その中身はチェーン店を中心としたアルバイト従事で終わってしまう可能性が高い。そのため、秋入学を導入する有力大学に進学できるのは富裕層家庭に傾斜し、「学歴の再生産」が進んでしまう恐れがある。

また、日本の大学では、自身の興味と適性を見極めないままに大学に入学してくる学生が多い。そうした学生は大学に入ってから、この大学で、この学部でよかったのかと悩み始める。ギャップイヤー付きの秋入学の導入はそうした悩む時間を与えながら、出直しにはさらに一年間も浪費せざるを得ず、実質的に自分の来し方行く末を真摯に見つめる機会を遠ざけるシステムとなっている。

現在、秋入学は30数校の国公立大学と早慶の2つの私立大学が前向きに検討を始めていると報じられている。国公立大学や一部の有名大学はいいが、1年間もの学費収入のない空白期間を持ち堪えられない私立大学が出てくるのではと著者は危惧する。

著者は最後に「こうした様々な事態を避けるためには、莫大な費用をかけてでも、ギャップイヤーのない秋入学を国家事業として一気に導入するしかない。それが日本に見合ったやり方である」と述べる。

こう見てくると、ギャップイヤーを伴う「秋入学」というのは、週5日制を前提とした「ゆとり教育」に性格が似ている。十数年前の完全5日制導入時の文科省の宣伝文句は、土曜日の休みをボランティア活動にあてたり、家族や自然、芸術スポーツとの触れ合いの機会にしたりするというものであった。しかし、家族揃って土曜日が休みで自然や芸術に触れる余裕があるのは正社員と専業主婦の一部の家庭だけであって、家でゲームやパソコンに勤しむ小中学生や、バイトに興じる高校生が多く生まれる結果となった。また、塾に行くことができる「ゆとり」の時間が増え、公立学校の授業内容の削減と相俟って、ますます親の経済力と学力の相関関係が密接なものになる悪循環に陥っていった。

一部の大学が先行する形で議論が進んでいるギャップイヤーも、半年や1年の過ごし方という時間だけで捉えるべきものではない。親の経済力や大学の資金力で差を付けるような制度というのは、長期的に見ると経済格差がそのまま教育格差へ繋がる「貧困の連鎖」を生み出してしまう。そうした観点で秋入学の記事を読むようにしたい。