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「新国立競技場の建設問題」

本日の東京新聞夕刊の中高生向けの紙面に、新国立競技場の建設問題に関するジャーナリスト池上彰氏のニュース解説記事が載っていた。
高校の運動会の盛り上げを巡って、歯止めが利かなくなった検討委員会の模様を引き合いに出しながら、新国立競技場の建設問題で露わになった日本特有の構造的な欠陥について指摘している。非常に分かりやすく、論点が明確な文章だったので、引用しつつ書き方を参考にしてみたい。

 戦前の日本は、中国大陸の「関東州」に陸軍を駐在させていました。ソ連の脅威に備えるためで、それが「関東軍」です。ところが、関東軍が、中国大陸で勝手に戦闘を始めます。日本政府は、戦火が広がらないようにしようとしますが、誰もが関東軍をやめさせることができない。そのうちに、「これだけ日本軍の兵士に犠牲が出ているのだから、ここで戦争をやめるわけにはいかない」という声が高まり、ついには全面的な日中戦争、アメリカとの太平洋戦争へと拡大していきます。多くの人が「戦争やめろ」と言えませんでした。
 戦争が終わった後、連合国による東京裁判は開かれましたが、日本人自らによる開戦の責任の追及は行われませんでした。「一億総懺悔」(一億の国民全員が反省しなければならない)という言葉でうやむやになってしまいました。
 新国立競技場の問題を戦争に置き換えると、こういうことではありませんか。
 つまり日本という国は、巨大なプロジェクトがいったん始まると、誰もがおかしいと言い出せず、途中でやめられない。どうしようもなくなって中止になると、誰もが責任を取らない。「みんなの責任だ」で、終わってしまう。太平洋戦争は、まさに典型でした。
 こうして見ると、いまも日本は、同じような体質を持っていることがわかります。これは健全なことではありません。
 要は目的を明確にすること。多目的にこだわると、無目的になってしまいます。担当者の責任の範囲を明らかにして、問題が起きたらきちんと責任を取る。この基本を徹底させないと、いずれまた同じ失敗を繰り返します。

「紙一重で生き残った」

本日の東京新聞朝刊の埼玉版に、熊谷陸軍飛行学校(現航空自衛隊熊谷基地)で特攻隊に配属され生き残った方のインタビュー記事が掲載されていた。
記事の中で、沖末氏の「戦争の元凶は膨張主義だ」という言葉が印象に残った。領土や領海、戦力、戦果など数字化されるものを伸ばしていくという膨張主義は、現在の日本でも未だに跋扈している危険思想であるといっても良い。相手よりも、昨年よりも「スペック」を吊り上げていくという考え方そのものを疑っていける「教養」を身に付けていきたい。

以下、東京新聞ホームページより転載


戦後70年 語り継ぐ(中)旧熊谷陸軍飛行学校 紙一重で生き残った

熊谷市西部にある航空自衛隊熊谷基地のほぼ中央に、「荒鷲之(あらわしの)碑」と刻まれた大きな石碑が立つ。かつてこの地にあった熊谷陸軍飛行学校(熊飛校)で学び、戦死した少年飛行兵や特攻隊員らの慰霊と顕彰のため、一九七五年に建てられた。
「私は紙一重のタイミングで生き残った。運がよかった。その後七十年も生きてこられたのは不思議に感じる。同期の半分は戦時中に死にましたから」
熊飛校を四四年に卒業し、第六航空軍の特攻隊「第三〇三振武(しんぶ)隊」に配属された土田昭二さん(88)=三重県四日市市=がしみじみと語った。
「敵艦隊が沖縄を北上中。十五日午後八時に突入せよ」-。四五年八月十四日。福岡県の大刀洗(たちあらい)飛行場で待機していた土田さんらに出撃命令が出た。翌日に一式双発高等練習機(キ54)に五百キロ爆弾を積み、準備をしていたところ、正午の玉音放送で終戦を知った。
熊飛校の開校から終戦までの十年間、同校で訓練を受けた少年飛行兵や幹部候補生らは一万人をゆうに超える。このうち特攻などで亡くなった人は三千人を超えるとされる。
多くの少年飛行兵が未熟な操縦技術のまま実戦に駆り出された。「訓練中や移動中の事故死も多かった」。そう振り返る土田さんも当時は十代だった。たくさんの仲間がフィリピンや沖縄で命を落とした。
土田さんはこれまで数回、荒鷲の碑を見に熊谷を訪れた。「自分が犠牲になることで一億の国民は幸せになれる。あの時みながそう信じていた。もっと早く終戦になっていれば、あんなに多くの犠牲を出さずに済んだはずだ」

■  ■

沖松信夫さん(90)=熊谷市=は四五年四月、静岡県内に置かれた浜松教導飛行師団から熊谷に転属してきた。新たな所属は、熊飛校の廃校に伴って発足した第五二航空師団だった。
同師団には特攻隊が新たに四隊編成されることが決まり、浜松で重爆撃機の操縦訓練を受けた沖松さんが「第二六二振武隊」を率いることになった。
同隊は十二人構成で、百式重爆撃機が四機配備された。出撃時に八百キロ爆弾を積んで海面すれすれの飛行を想定し、低空で編隊飛行したり、滑走路から約二キロ南の観音山(標高八三メートル)を目標に最高速度で突っ込んだりする訓練を繰り返した。
八月十日ごろ、「十五日午後三時、熊谷を離陸し、熊本の飛行場へ向かえ」との指令が出た。「ついにそのときが来たか。うまく敵艦に命中してやろう」。沖松さんは覚悟を決めたが、十四日昼に出撃延期を伝えられた。理由は知らされなかった。翌十五日、宿泊先の民家で玉音放送を聞いた。「助かった」と涙を流した後、やり場のない怒りもこみ上げてきたという。
終戦後、「なぜ日本が戦争の道を歩んだのか」との疑問が芽生えた。東大法学部に進み、卒業後は熊谷市内の定時制高校で四十五年間、社会科の教員として教壇に立った。生活が苦しい生徒たちに教えることに生きがいを感じてきた。
「特攻隊で命永らえて、人生観、世界観が変わった。戦争の元凶は皇民化教育と膨張主義だ。過去を美化しようとする保守勢力が広がりつつあり、この国がまた同じ道を歩むのではないかと心配だ」
(花井勝規)

<熊谷陸軍飛行学校> 陸軍が航空機操縦者を大量養成するため1935年12月、旧大里郡三尻村(現熊谷市)に開設した。戦況悪化を背景に45年2月、第52航空師団に吸収される形で同校は廃止され、航空機に爆弾を搭載して敵艦に体当たりする特別攻撃隊(特攻隊)の訓練基地となった。戦後は米軍キャンプ地として接収され、58年の返還後は跡地の一部を航空自衛隊熊谷基地が使用している。

20150814
旧熊谷陸軍飛行学校で学び戦死した特攻隊員らを慰霊する「荒鷲之碑」の前に立つ沖松信夫さん=熊谷市の航空自衛隊熊谷基地で

玉音放送 原盤公開

遅ればせながら、今月1日の東京新聞で紹介された、「大東亜戦争終結に関する詔書」、いわゆる玉音放送の原盤を聞いてみた。
ちょうど70年前の1945年8月14日に録音されたものであるが、かなり鮮明に聞くことができた。
文面は大変よく出来たものであり、朕自ら平和を希求するがゆえに戦争を終えるのだと読むこともできるし、「東邦ノ解放」に向けた戦争を継続したいが「戦局必ズシモ好転セズ」「新ニ残虐ナル爆弾」により仕方なく戦争を終えるのだと読むこともできる。読む側の受け取り方次第であろう。我田引水な解釈は避けたい。
どちらにせよ事は急いており、今後は過去を振り返ることなく、一層の信義を得るための祖国再建を目指せという趣旨である。戦争を思い出すという点に絞るならば、毎年聞いてもいいものであろう。


2015年8月1日付け 東京新聞より

昭和天皇は1945年8月15日正午から、ラジオで国民に敗戦を告げました。宮内庁は1日付で、放送に使われたレコードの原盤の写真と、原盤を再生してデジタル録音した音声を公開しました。また、昭和天皇は1946年5月24日、深刻な食糧不足を助け合って乗り切ろうと国民にラジオで呼び掛けました。この音声も玉音原盤と一緒に保管されていた原盤を宮内庁が再生、デジタル録音して公開しました。

「憲法9条改正案」

先週発売された「サンデー毎日」(2015/07/12)に憲法学者小林節氏の小論文が掲載されていた。
小林氏は、安保法制における「後方支援」という政府の言い分のデタラメさを指摘し、国際法上の集団的自衛権の行使が明白に違憲であると喝破し、憲法解釈の変更による新安保法制を「裏口入学」だと断じた上で、堂々と憲法改正を目指すべきだとし次のような新9条を提案している。

1項 わが国は第二次大戦の経験を反省し、二度と間違っても侵略戦争はいたしません。これを世界に誓います。
2項 ただし、わが国も独立主権国家である以上、わが国が侵略の対象とされた時には、堂々と自衛戦争を行う。
3項 そのために我々は自衛軍を持つ。
4項 この自衛軍を用いて、国際貢献を行うが、それは国連安全保障理事会の決議がある場合に限る。

かつての自民党や最近までの民主党の考え方に近いもので、「自衛戦争」や「自衛軍」という言葉に敏感に反応してしまうが、安倍総理のゴリ押しする、敵を作りテロを誘発し戦争を拡大するための新安保法制と照らし合わせると、極めて真っ当なものに感じる。
子どもがまだ小さく、国会前の反対闘争に馳せ参じることは難しいが、現場に出向いて声を上げること以外の「後方支援」を積極的に行っていきたい。

『ぐるり一周34.5キロ JR山手線の謎』

松本典久『ぐるり一周34.5キロ JR山手線の謎』(実業之日本社 2009)を読む。
山手線の車両の移り変わりや環状運転となった経緯、全29駅の乗降客数や開業した背景などがコンパクトにまとめられている。
池袋から赤羽まで沿線された歴史や、新橋駅の変遷、常磐線の起点が田端駅から上野駅に変わった理由など、鉄道オタクでなくとも通勤や通学の車窓からの風景が楽しくなる雑学ばかりであった。
タイムリーなことに、今日の夕刊は山手線の新型車両の記事であった。大正時代の木製の車両ホデ6100系から始まる山手線の「進化」に思いを馳せてみたい。

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