本日の東京新聞朝刊の埼玉版に、熊谷陸軍飛行学校(現航空自衛隊熊谷基地)で特攻隊に配属され生き残った方のインタビュー記事が掲載されていた。
記事の中で、沖末氏の「戦争の元凶は膨張主義だ」という言葉が印象に残った。領土や領海、戦力、戦果など数字化されるものを伸ばしていくという膨張主義は、現在の日本でも未だに跋扈している危険思想であるといっても良い。相手よりも、昨年よりも「スペック」を吊り上げていくという考え方そのものを疑っていける「教養」を身に付けていきたい。
以下、東京新聞ホームページより転載
戦後70年 語り継ぐ(中)旧熊谷陸軍飛行学校 紙一重で生き残った
熊谷市西部にある航空自衛隊熊谷基地のほぼ中央に、「荒鷲之(あらわしの)碑」と刻まれた大きな石碑が立つ。かつてこの地にあった熊谷陸軍飛行学校(熊飛校)で学び、戦死した少年飛行兵や特攻隊員らの慰霊と顕彰のため、一九七五年に建てられた。
「私は紙一重のタイミングで生き残った。運がよかった。その後七十年も生きてこられたのは不思議に感じる。同期の半分は戦時中に死にましたから」
熊飛校を四四年に卒業し、第六航空軍の特攻隊「第三〇三振武(しんぶ)隊」に配属された土田昭二さん(88)=三重県四日市市=がしみじみと語った。
「敵艦隊が沖縄を北上中。十五日午後八時に突入せよ」-。四五年八月十四日。福岡県の大刀洗(たちあらい)飛行場で待機していた土田さんらに出撃命令が出た。翌日に一式双発高等練習機(キ54)に五百キロ爆弾を積み、準備をしていたところ、正午の玉音放送で終戦を知った。
熊飛校の開校から終戦までの十年間、同校で訓練を受けた少年飛行兵や幹部候補生らは一万人をゆうに超える。このうち特攻などで亡くなった人は三千人を超えるとされる。
多くの少年飛行兵が未熟な操縦技術のまま実戦に駆り出された。「訓練中や移動中の事故死も多かった」。そう振り返る土田さんも当時は十代だった。たくさんの仲間がフィリピンや沖縄で命を落とした。
土田さんはこれまで数回、荒鷲の碑を見に熊谷を訪れた。「自分が犠牲になることで一億の国民は幸せになれる。あの時みながそう信じていた。もっと早く終戦になっていれば、あんなに多くの犠牲を出さずに済んだはずだ」
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沖松信夫さん(90)=熊谷市=は四五年四月、静岡県内に置かれた浜松教導飛行師団から熊谷に転属してきた。新たな所属は、熊飛校の廃校に伴って発足した第五二航空師団だった。
同師団には特攻隊が新たに四隊編成されることが決まり、浜松で重爆撃機の操縦訓練を受けた沖松さんが「第二六二振武隊」を率いることになった。
同隊は十二人構成で、百式重爆撃機が四機配備された。出撃時に八百キロ爆弾を積んで海面すれすれの飛行を想定し、低空で編隊飛行したり、滑走路から約二キロ南の観音山(標高八三メートル)を目標に最高速度で突っ込んだりする訓練を繰り返した。
八月十日ごろ、「十五日午後三時、熊谷を離陸し、熊本の飛行場へ向かえ」との指令が出た。「ついにそのときが来たか。うまく敵艦に命中してやろう」。沖松さんは覚悟を決めたが、十四日昼に出撃延期を伝えられた。理由は知らされなかった。翌十五日、宿泊先の民家で玉音放送を聞いた。「助かった」と涙を流した後、やり場のない怒りもこみ上げてきたという。
終戦後、「なぜ日本が戦争の道を歩んだのか」との疑問が芽生えた。東大法学部に進み、卒業後は熊谷市内の定時制高校で四十五年間、社会科の教員として教壇に立った。生活が苦しい生徒たちに教えることに生きがいを感じてきた。
「特攻隊で命永らえて、人生観、世界観が変わった。戦争の元凶は皇民化教育と膨張主義だ。過去を美化しようとする保守勢力が広がりつつあり、この国がまた同じ道を歩むのではないかと心配だ」
(花井勝規)
<熊谷陸軍飛行学校> 陸軍が航空機操縦者を大量養成するため1935年12月、旧大里郡三尻村(現熊谷市)に開設した。戦況悪化を背景に45年2月、第52航空師団に吸収される形で同校は廃止され、航空機に爆弾を搭載して敵艦に体当たりする特別攻撃隊(特攻隊)の訓練基地となった。戦後は米軍キャンプ地として接収され、58年の返還後は跡地の一部を航空自衛隊熊谷基地が使用している。
旧熊谷陸軍飛行学校で学び戦死した特攻隊員らを慰霊する「荒鷲之碑」の前に立つ沖松信夫さん=熊谷市の航空自衛隊熊谷基地で