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amlより転載

こんな社会はもうイヤだ 治安と管理の現在を考える討論会へ!
発題:宮本弘典さん(関東学院大学教授、刑法)
・8月18日(日)午後3時〜
・日本基督教会館6階(地下鉄東西線早稲田駅下車)

会場費400円今の社会は果たして「自由」なのか? 確かに100年前と比べれば格段に「自由」になっている様に思える。私たちは、昔よりは自分の意志でもって行動し、色々な生き方をすることができうる。

だったらこの社会は、いい社会なのか。そうも言い切れない気がする。いや、むしろ最近では、そう思えないことのほうが多くなっていないだろうか。
日本社会は出口なしの不況にあえいでいる。これから抜け出るために国家や財界は必死である。働く人たちも職を確保するのに懸命である。社会に余裕がなくなりつつある。
そうすると弱い者から切り捨てがはじまる。監獄や精神病院では、収容されている人をますます閉じ込めておこうという動きが出ている。具体的には、無期懲役囚を終身刑化していくことであったり、心神喪失者医療観察法案という名の新たな保安処分の導入である。

また、過激派・暴力団・オウム・「三国人」など、少数派に対する圧力も厳しくなっている。普通では考えられない微罪での逮捕など、当たり前。その団体に属していたり、属性を持っているだけで犯罪、といわんばかりのような状況ができている。

その一方、みんなに等しく管理の輪がかけられつつある。この8月5日に施行予定の住民基本台帳ネットワークでは、日本国民全員に11桁の番号が割り振られ、個人情報を国家が集権的に管理する時代がはじまろうとしている。
そして、最大の人権侵害である戦争、これに国民を動員する有事法制を制定しようという強い動きがある。

ここにも書き切れないことが沢山あります。こうした動きをどう捉え、どうしていけばいいのか。まずは、自分にとって身近なことから考えていけばいいと思いますが、では全体として社会はどういう方向に行こうとしているのか? それを考える場を持ちたく、呼びかけます。

第1回目は、関東学院大学の宮本さんからお話を頂き、討論していきたいと思います。こうした場を何回か持ち、より大きな輪を作り出していきましょう。ぜひご参加下さい。

呼びかけ人:のびた(救援連絡センター)、ぺぺ長谷川(交流家)、なすび(山谷労働者福祉会館)、星山京子(牧師)、小田原紀雄(牧師)
連絡先:救援連絡センター( 03-3591-1301、kyuen@livedoor.com)

「心神喪失者医療観察法案」

友人から「心神喪失者医療観察法案」の国会上程についてのメールが来たので少々紹介したい。

今国会に心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律(案)」(心神喪失者医療観察法案)が上程され、審議入り間近の状況である。この法案は「観察」と名打っているが、実際は「精神障害者」の監禁という性格を持つ。この法案は違法行為を行なったとされる精神障害者が心神喪失を理由に裁判にならなかったか、あるいは無罪等の判決を受けたときに、再び同様の行為を行なうおそれがあるとされれば、最長5年の通院、もしくは無期的な入院措置が強制的に行われるというものだ。そもそも「精神障害」の定義づけすら誤解を生じている中、将来にわたって一人の人間の犯罪を行なう可能性を予見することなど不可能である。また証人申請の権利すらも認められていないなど、防御権が保障されていないので、拡大解釈によって対象が無限に広がってしまう。「推定無罪」という刑事訴訟法の原則すらも踏みにじるこの法案は、「精神的疾患」が原因となった犯罪の増加という面からのみ考えるのではなく、組織的犯罪対策法、有事法整備、住民基本台帳改悪=国民背番号制などと一緒に捉えていく必要がある。

詳細は現代書館刊フォービギナーズシリーズ『精神医療』の著者である長野英子さんのホームページを拝見ください。

救援連絡センターHPより

救援連絡センターという弁護士事務所のホームページにいい文章が載っていた。転載してみたい。

私は、1990年代の初頭から中盤にかけて早稲田大学の学生だった。入学当時はバブル経済の末期に当たるが、誰も今の不況が到来するとは夢に も思っていなかった。フリーターという言葉が当たり前のように定着し、その日暮らしでもなんとかなるような気がしていた。社会全体が浮ついていたという感 があった。多くの学生は「大学に入って、学問を究めるぞ」とも思っていなかった。学生生活の中心はサークルやその他自主的な活動であった。

早稲田大学に数多くあるサークルの部室は、キャンパス内建物の地下にあったり、ラウンジや学生会館の中にあった。地下部室は現在、大学当局に よって封鎖され、立ち入りできなくなってしまっているが、それはほぼすべての地下に存在し、まるで迷路のような空間を形成していた。何年前あるいは10年 以上前に貼られたり書かれたと思われる各種ビラや落書きの洪水、昼でも薄暗い廊下、ヒンヤリと、そして少し湿った空気が漂う、特殊な空間だった。建物の上 では、大学が決めた要項、時間割りに則って退屈な授業が行なわれているのに比べて、圧倒的な存在感があった。「すごいところだな」と思ったのをよく覚えて いる。そしてさらに驚いたのは、そこがもともと部室として大学から与えられたものではなく、倉庫やゼミ室であったところを60年代頃から学生が占拠した場 所だったということである。以来、当局との力関係の緊張感の中で維持されてきた空間だったのである。ヨーロッパなどで、自分たちの生きる空間を自分たちで 創り出すために行なわれているいわゆるスクワッティング(空き家占拠)に通じるものを感じる。

今の日本の社会状況の中で、国家権力の手がストレートに及ばない、自律した領域はますます狭められている。それは単に空間的な問題だけではな い。個人の生き死にや、内面までが管理の対象とされている。権力の側からすれば、それだけ余裕がなくなってきているということなのだろう。そんな中で、こ れまで大学という場は、「学の独立」「学問の自由」という美名のもとで、一定は自律した領域として存在してきた。社会からも「学生さんだから」という目 で、便宜をはかられたり大目に見られたりしてきたのである。しかし、バブル経済崩壊と関連しているのだろうか、社会が閉塞感を強める中で、大学という場も 変わりつつある。最近では、東京大学駒場寮に明け渡しの強制執行、早稲田大学では既存のサークルスペースの使用停止と新学生会館への強制移転という事態が 進行している。

今回、大学当局が踏み込んできた背景には、一つには当局の側に余裕がなくなってきていること、もう一つには「もうそろそろ手を下しても大丈夫 だろう」という自信があったと考えられる。そして当局は、大学としての生き残りをかけて本気でやってきた。それに対抗する側が圧倒的に押され気味である。 どうしたら、すぐにでなくても事態が打開できるのだろうか。

学生たちの多くは四年プラスマイナスアルファで関わりをたつが、当局はずっと存在し続けるわけで、大学という場所に対するモチベーションは当 局のほうが断然強い。そんな力関係の中で、学生たちが本当の意味で当局に「勝つ」には、自分たちが作り上げてきた「自律した空間」が社会的にどう意義があ るかを検証した上で、どのように社会ときり結んでいくかという問題意識が大切ではないだろうか。また、大学という場を離れた私にとっては、ある種特権的な 場所だったとは言え、少なくともあの地下は、現在の主流の文化(そしてその裏にある価値観)に対する対抗的な意味を持っていた。そこで培われたものを、実 際の社会の中でどう実現していくかが、より困難ではありそうな今後の課題である。(9月30日)

「新橋通信」

救援連絡センター発行の『救援』(第389号)を読む。その中の編集後記「新橋通信」から引用してみたい。

全国の大学で自主・自治空間つぶしが強まっている。最近で言えば東京大学駒場寮への強制執行、早稲田大学での新学生会館開館に伴う既存のサークルスペースの一斉撤去などが上げられる。大学当局からすれば、もともと自分たちの目の届かないところで学生たちが自主的な活動をしていることは許せないものだった。しかし、下手に手を触れるとどうなるか分からないからとりあえず手を出さないでおこう、としてきた。それが、「もうそろそろ大丈夫だろう」と、弾圧に全面的に乗り出してきた感がある。これに対する反対運動は、一般の眼に、大学という特権的な空間での特権的な場所を守ろうというように映りがちである。これは「司法改革」に反対と言う時、弁護士の特権的な立場を守りたいからだろうという批判に似ている。どうやって運動を広げていくか、運動の側にも真価が問われている。東大や早大では、学生たちはテントを張りながらこの夏を過ごしている。興味を持たれた方は、ぜひ現場に足を運んでみてはどうだろうか。(の)

大学に置ける学生運動の一つのメルクは大学の「解放」である。ここ数年少子化の影響か、大学は講座を一般市民に「開放」する試みに懸命である。大学内で資格関連講座を開いたり、地域の公民館等で教授による教養講座が数多く開かれている。しかし全共闘運動が目指したのは、「反大学」「自主講座」であり、学問や思想の再構築をベースとして、大学を拠点として運動を「開放」していくものであった。60年安保、ベトナム反戦運動、70年安保、沖縄三里塚や人権問題等山積みな課題に対する議論や行動の集約点として大学を活用してくという発想だった。

少し乱暴な表現になるが、やはり自主自治活動空間内で取り組まれる様々な運動自体が常に社会と対峙したものであり、その運動を進めていく上で、学生は大学という権力とぶつからざるを得ず、そこから空間を守るという運動につながっていくものであるのが、本来の姿であろうか。東大や早大でのテレビ報道を見ていると、最後の「空間を守る」というところだけしか放映されないため、特権的な運動、学生のお祭り騒ぎと一般視聴者は捉えても仕方がないであろう。いくらメディアが学生に親身に運動を扱ったところで、逆にメディアの限界性が露呈していくだけのような気がする。映像というものはその被写体の他とのつながりを捨象して、短絡的に表現する。高崎経済大学での闘争を描いたドキュメンタリー『圧殺の森』という作品があるが、学生の熱心さやひた向きさは視るものの胸を打つが、議論を積み重ねていく運動自体の内実が視るものに伝わったかというと疑問符がついてしまう。特に映像という制作側の意図が加わりやすいメディアの危険性は70年前半から指摘されていたことであるが、マスコミ、権力、反権力、警察等様々な立場の人たちが映像を扱え、武器に出来る現在は特に難しいのかなと感じる。