森毅『思い出つくれる学校のすすめ』(明治図書 1990)を読む。
「算数教育」という教員向けの雑誌に連載された著者の教育を巡るエッセーをまとめたものである。「授業のプロ」「道徳者」「上に立つ者」という固定化された「教師」観念を崩すことから、教育に柔軟性が生まれて自由な教育環境が実現できる素地が生まれるのではないかと、森氏はのらりくらりとした語り口で述べる。氏はゼロサムに物事を固定化する傾向にある教員や校長、さらには教育行政全般の在り方に批判的な見解を示し、あらゆる物事には100%というものは存在せず、適度な異分子が混じっている方が自然であり、そうした多様性を守っていくことこそが教育の原点であると述べる。一方で、森氏はいたずらに管理や校則のない自由教育を目指せと言うのではない。一定程度の規則やルールを作った上で、ぎりぎりルールに踏みとどまったり、逆にルールを思い切って越えていく、そうしたライン際における判断力や行動力が生き馬の目を抜く社会で役立つと述べる。つまり、土俵際の粘り強さこそが真の「生きる力」だというのだ。
確かに、私自身自分や相手をうまく騙したり騙されたり、また賛成しながら反対するといった微妙な対他関係を苦手としているので、いろいろ参考になるところが多かった。
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『「頭がいい」とはどういうことか』
米山公啓『「頭がいい」とはどういうことか』(青春出版社 2003)を読む。
ホームページを見ると、著者米山氏は130冊以上も著作があり、講演会も精力的にこなす多忙な人物のようだ。メルマガの発行や読者との交流など自分の宣伝にも余念が無い。
大脳生理学や認知科学などの専門的な話を分かりやすい具体例を交えて紹介している。タイトルで出された「頭がいい」という問題提起に必ずしも答えきれていないのが残念なところである。
『若者に伝える戦争の真実:人間と地球の未来のために』
戦後60年ということで、戦争に関する本を1冊読んでみた。
名古屋国際高等学校教員グループ著『若者に伝える戦争の真実:人間と地球の未来のために』(かもがわ出版 1995)という本である。731部隊の元隊員の息子である神谷則明氏を中心としてまとめられ本である。しかし、「若者に〜」とある以上、高校生が手に取る本でもなく、読者対象がいまいちはっきりしないが、731部隊や南京大虐殺、従軍慰安婦、原爆、アウシュビッツ、天皇の戦争責任、教科書裁判など、10年経った今現在でもほとんど進展のない戦争を巡る事柄について分かりやすく問題提起している。アウシュビッツの項では、有名なマルチン・ニーメラーの言葉を引用しながら、常に問題の主体を読者に投げ掛けている姿勢は評価できる。学校のホームページを読む限りでは授業評価も公表されており、とても著書のような授業を繰り広げられる余裕はないと思うのだが、是非頑張ってほしい。
ナチスが共産主義者を弾圧した時 私は不安に駆られたが
自分は共産主義者でなかったので 何の行動も起こさなかった
その次 ナチスは社会主義者を弾圧した 私はさらに不安を感じたが
自分は社会主義者ではないので 何の抗議もしなかった
それからナチスは学生 新聞 ユダヤ人と 順次弾圧の輪を広げていき
そのたびに私の不安は増大した が それでも私は行動に出なかった
ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた そして私は牧師だった
だから行動に立ち上がった が その時はすべてが あまりにも遅かった
『体育原論』
永松英吉・水谷光壮共著『体育原論』(原書房 1987)を読む。
初版は1968年となっており、おそらくは大学の教科書として用いられていたのだろう。文章を読むだけで、この本を基に展開されていたであろう退屈な授業が目に浮かんでしまう。体育というものを何かしら意義付けようとすると結局はスポーツマンシップとアマチュアリズムの2点に行き着いてしまう。
スポーツマンシップとは、精神と身体は一体のものであるというギリシア的な人間観に基づき、肉体を鍛えることで健全な精神が鍛えられるというロジックである。それは、後世肉体は汚れたものだとするキリスト教的な人間観が蔓延り、肉体を鍛えることは悪だとされたローマ時代に、「健全なる精神の健全なる身体に宿ることこそ望ましけれ」と、ギリシアの全人的な心身の調和を理想とした詩人ユヴェナリスの風刺的な言葉にも表れている。
また、アマチュアリズムは、簡単にまとめると、競技そのものを目的化し、相手や審判、ルールを尊重する・させることで、善悪の判断や規範意識を身に付け、身に付けさせ、人間性の向上と、豊かな生活と文化の向上を期すというものだ。
勝敗絶対主義と商業主義にどっぷりと漬かりながらも、こうした仮面を被る姿勢を取り続けるところに、スポーツ・格闘技ではなく、体育・武道の意味があるのだろう。
この本ではあまり展開されていないが、国家権力がどのように体育・スポーツを位置づけてきたかという視点で体育の歴史を俯瞰するというのは面白い研究になるであろう。体育は人間の身体そのものと密接に関わるものであるため、時の政府による体育の位置づけには、国家権力のむき出しな姿が顕れてくるはずである。





