『大人のための自転車入門』

丹羽隆志・中村博司『大人のための自転車入門』(日本経済出版社,2005)を読む。
タイトルにも大人のためとあるので、中高年の自転車入門者向けに、自転車と健康についての講義の後に、自転車の乗り方や整備の仕方が分かりやすくまとめられている。

特に自転車は膝への負担が少ない運動である。膝の専門家によると、老化や使いすぎで筋肉が弱っているときに、過大な負担をかけて、膝を痛めることが多いという。膝の負担が特に少ない乗り方は、できるだけ軽いギアを使い、サドルを後方にずらして後方よりペダルを前に押し出すような踏み方をするとよい。ビンディングを用いる場合は、深めな設定がよいとのこと。

また、冬になると風邪をひく人が多くなるが、風邪の原因のウイルスの一つにライノウイルスがある。このウイルスは、喉の粘膜に感染し、34度前後の温度で増殖しやすい。
東北大学の永富教授によると、室温20度の部屋で20分間の運動をし、汗をふかず、喉元に何もあてない状態で、「喉とその奥」の温度を測ったところ、10人の平均で約33度まで下がり、元の体温に戻るまで20分以上かかったとのこと。
つまり、運動が終わった後、のどが特に冷えやすいのである。汗を服のはもちろん、喉元をしっかりと温めて、温度と湿度を保っておくことが大事である。だからこそ、冬のサイクリングではフリースとマスクの着用が望ましい。特に手足が冷えやすいので、シューズカバーなども有効である。また、手足は締め付けると血行が悪くなって冷えやすくなるので、注意が必要だ。

『何でも僕に訊いてくれ』

加藤典洋『何でも僕に訊いてくれ』(筑摩書房,2008)をパラパラと読む。
著者は『敗戦後論』などで有名な文芸評論家で、明治学院大学や早稲田大学で長らく教鞭を取った人物である。2006年10月から2007年12月にかけて”Webちくま”に掲載され、読者からの様々な質問に答えている。といっても、教科書的な通り一遍の答えばかりだったので、読む気を無くした。

「生き残った学徒兵・高校教師の覚書」

東京都立久留米高校教諭・沼野鹿之助さんのレポート「生き残った学徒兵・高校教師の覚書」(『道徳教育の実践』,総合労働研究所,1981/11/16)を読む。

著者は戦中派の世界史教師として、長年都立高校の教壇に立ってきた方で、自ら培った教育実践が披露されている。冒頭「感銘を与える授業なしに生徒指導は成立しない」とある。著者は世界史を教えるにあたり、「物事をきちんと順序を踏んで正しく見る力と自分の意見と考えをその年齢に応じて持ち、それをきちんと言える力と自分の生き方を創っていく」ことが社会科の目的であり、その目的に向かうために、授業の中で生徒を厳しく育てることが大切だと述べる。

また、授業の中身ついてに、著者は次のように述べる。

世界史で展開される個々の事象の中で巧く機会をとらえ、どんな古い時代、離れた国のことを教えていても、生徒の実感、生活意識に食いこんで、今の私たちの生き方として理解できるようにすることが大切だと思う。それが「道徳」教育の一環だと言えるのなら、私は抵抗感のある「道徳」という言葉を心から肯定する。

最後に、著者は次のように述べる。

一番大切なことは、教師というよりも、知識層と呼ばれる私たちが、石川啄木のいう「慢」を捨てろということだと思う。知識層の一番の弱点、己の「学識」で人間を見くだしたとき、「できない」子であろうと誰であろうと必ず背負い投げを食わせる。そのことを自分の前掛の中に隠し、どんなに人権を説き、憲法を語り、フランス革命を語ってもむなしい。

『ネット依存症のことがよくわかる本』

樋口進監修『ネット依存症のことがよくわかる本』(講談社,2013)を読む。
中高生向けの本で、ネットゲームにハマるきっかけや依存症の弊害、治療方法、ネットゲームとの付き合い方などが丁寧に説明されている。

しかし、依存症患者の自力だけでネットから抜け出すことは難しく、時には体を張ることができる大人の男性の力を借りながら、家族や友人などの他者の力で治療していくべきだという結論になっている。

『山里の四季をうたう』

井出孫六・石埜正一郎『山里の四季をうたう:信州・1937年の子どもたち』(岩波ジュニア新書,2006)をパラパラと読む。
タイトルにもあるとおり、1937(昭和12)年、長野県諏訪郡本郷村立本郷尋常小学校(現富士見町立本郷小学校)の3年生が書いた自由口語詩が掲載され、当時の小学校の教員事情や時代背景などが補足されている。

当時、小学校教員は師範学校を卒業することが条件であったが、旧制中学校の卒業者でも代用教員として教団に立つ道が開かれていた。任期は1年で一番教えやすいとされる小学校3年生を受け持つのが慣例となっていたようだ。

また、当時の時代背景として気になって点を書き留めておきたい。1930年代は多くの農家で馬を飼い、農作業や荷物運びで使っていたそうだ。しかし、戦争の色が濃くなってくると、中国侵略のために中国へ連れて行かれ、二度と戻ってこなかった。

また、当時諏訪湖周辺は日本一の製糸業地帯で、周辺の農家は蚕を盛んに飼っていた。豊富な諏訪湖の水と乾燥した気候が要因としてあげられている。