林望『ホルムヘッドの謎』(文藝春秋,1992)を3分の1ほど読む。
最初はイギリスの地図の成り立ちやラウンドアバウトの発展など興味深い内容であった。
日本人が地図を書く場合は、幅のある道を書き、交差点の目印を書くのが普通である。しかし、イギリス人は全ての通りに名前が付いているので、道路は一本の線で描き、「……Avenue」や「……Lane」といった通りの名を付すのみである。田んぼの畦道が道路となった日本と、道路の傍に住宅が建てられたイギリスの街の発展の違いに由来するものである。
『中学生の教科書』
島田雅彦・布施英利・野崎昭弘・宇野功芳・養老孟司・宮城まり子・池田晶子『中学生の教科書:死を想え』(四谷ラウンド,1999)をパラパラと読む。
各界の一流の専門家が言語や美術、数学、音楽、理科、社会、道徳の項を分担され、中学生向けに平易な文章で、「死」に関連した文書を寄せている。中にはどこか別の雑誌に掲載されたようなちぐはぐな内容もあり、寄せ集め感は拭えない。
版元の「四谷ラウンド」という出版社であるが、2000年前後に創業され、10年ほどで倒産されている。社長だった田中清行さんが気になる。
『高層の死角』
第15回江戸川乱歩賞受賞作、森村誠一『高層の死角』(角川文庫,2015)を読む。
1969年に発表された推理小説である。その当時は珍しかったオートロックドアや国際線の乗り継ぎなどを利用したトリックなのだが、肝心の犯人がほとんど登場せず、ホテルのチェックイン・チェックアウトのリストや時刻表の調査の場面が続くので、途中で飽きてしまった。感想なし。
『彼女は嘘をついている』
小泉知樹『彼女は嘘をついている』(文藝春秋,2006)を一気に読む。
痴漢被害で無実の罪で逮捕され、女性の自白のみの調書で起訴された男性が、2度にわたる控訴審の棄却を経て、1年3ヶ月収監され、そして再審請求を始めるまでの一連の顛末が描かれる。
警察官や検察官、裁判官どもの「事勿れ主義」な杜撰な仕事に、著者と一緒に怒りが湧いてくる。自分は果たしてどうなのか。空気を読むだけのやり過ごしな態度はどうなのか。
『文学がこんなにわかっていいかしら』
高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』(福武書店,1989)を1時間かけて読む。
いまから35年前のバブル華やかりし頃の文芸時評である。ちょうどファミコンソフト「ドラゴンクエストⅢ」が発売された時期で、日本橋の三越本店でファミコンソフトを買うために行列し、売り場まで殺到する光景は懐かしかった。中学生ながらそんなニュースを見ていた記憶がある。
ドラゴンクエストについて高橋氏は次のように述べている。分かるよなあ。
「ドラクエⅠ」から「ドラクエⅡ」へと移り変わっていく過程は、自然成長性とでも呼ぶべき過程だったのかもしれず、その中で「ドラクエ」は製作者の思惑をも越えたゲームに変貌した。それは、我々の無意識をどこかで解放し、そのことによって百万単位の「読者」を生み出したものである。だが「ドラクエⅡ」から「ドラクェ皿」への過程は、すでに生み出した「読者」へ拝跪する過程だったのだろうか。自らが生み出した「読者」のために、「万人に開かれたゲーム」という幻想が生まれた瞬間から「物語」の導入は不可避であった。「ドラクエⅢ」は名工たちにょって磨きあげられた最高のエンターテインメントである。だが、それはスピルバーグの善意のエンターテイメントがそうであるように、そのサーヴィスによって我々をどこまでも軽い疲労へおとしこむのだ。だから、我々はこう言わねばならない。我々に必要なのは「善意」にみちた(それが「悪意」でもほとんど変わりはないのだが)「物語」ではなく、底が抜け、その抜けた底から冷たい風が吹きあがる「ゲーム」そのものなのだ、と。
