授業でちょうど内的営力を扱っていたので、思い立って三宅島に出かけた。
昼過ぎに東海汽船に電話して、当日の夜のフェリーを予約した。前便の到着が遅れ、30分過ぎの23時の出港であった。
昨夏以来の輪行袋の登場である。一人分なので楽。
朝5時に三宅島・伊ヶ谷港に到着。何もないところであった。26000年前の南九州の噴火火山灰が確認されている地域でもある。
三宅島一周道路を時計回りに回る。伊豆岬灯台の近くの空き地にて。まだ朝6時。
道路脇の案内に浅沼稲次郎の生家とあったので立ち寄ってみた。
記念館のようなものを想像していたのだが、生家も空き家のまま放置されており、銅像も林の中に取り残されているような寂しい有様であった。
生き生きとした森林の中に、噴火によって枯れた樹木が散見される。
1962年の噴火で誕生したスコリア丘。スコリアとは破片状の火山噴出物で、火山のボタ山といったところか。
背後に御蔵島を眺める。御蔵島は7000年ほど噴火をしてない島であり、海食崖(海岸に迫る陸地が波の激しい浸食によって切立った崖になる)が発達しており、お椀を伏せたような形となっている。
都立三宅高校。周りを切り立った崖に囲まれているのは、八重山火口の中に位置するためである。
1983年の噴火で海まで流れ出た溶岩。松の幼木が生えている。松は乾燥した痩せ地でも育ち、潮や寒さにも強い。土佐日記で作者紀貫之が荒れ果てた庭で小松が生えていることに感動する場面があるが、改めて松の生命力の強さに驚く。
三宅島郷土資料館。1階はすでに廃校となった小中学校の思い出の品が展示されている。浅沼稲次郎氏は三宅島や八丈島の名士の生まれであり、明治・大正期に開校した小学校の校長の名前にも浅沼の二文字が発見できる。2階に三宅島の歴史や噴火に関する展示が並んでいる。撮影禁止だったので、写真はないが、縄文時代の土器が見つかっていると知ってびっくりだった。
今回の旅のポイントでもある阿古小学校・阿古中学校の跡地。1983年の噴火により、溶岩流に埋もれてしまった校舎が残されている。鉄の骨組みがぐにゃりと曲がっており、熱せられた溶岩の凄まじさが感じ取れる。周辺の阿古地区で400戸もの建物が溶岩に飲み込まれている。