本日の東京新聞朝刊の「こちら特報部」に、相模原市の障害者施設殺傷事件に関する、和光大の最首悟名誉教授のコメントが掲載されていた。
テレビの報道番組などでは容疑者の異常さばかりが報じられるが、最首氏は容疑者の「正気」の部分に注目し、容疑者の言葉の背景にある危険性を指摘している。
今回の事件は猟奇的な犯行ではない。植松容疑者は「正気」だったと思う。そして口には出さずとも、内心で彼に共感する人もいるだろう。
彼は被害者の家族には謝罪している。個人の倫理としては殺人を認めない。しかし、生産能力がない者は「国家の敵」や「社会の敵」であり、そうした人たちを殺すことは正義だと見なす。誰かが国家のために始末しなくてはならないと考えてる。確信犯だ。
出産を含む生産能力のない者は社会の一員に値しないと見なす風潮がある。国家は戦争の敵兵や共同体を害する死刑囚を合法的に殺す。社会資源を注いでも見返りのない高齢者や、重度の障害者も「社会の敵」と見なされかねない。そうした水面下にある流れの泡が、ぼこっと出てきたのが今回の事件ではないか。
また、最首氏は「命の大切さ」を錦の御旗に紋切り型に事件を報じるメディアについても苛立ちを感じている。79歳の最首氏はダウン症で複合障害がある三女の星子さんと同居している。障害者の子どもを抱える母親の「この子が先に逝ってくれれば」というつぶやきに対して次のように語る。
ただこの子がいなければと思っても、殺すという一線は越えられない。それは「命は地球よりも重い」からではない。命には他の命を食べる残酷さもある。結局、命は分からないし、手に負えないもの。「いのちはいのち」でしかない。そんな事実がうめき続ける自分をとどめている。
最後に、最首氏は現在の福祉行政に反省と改革がない限り、福祉の現場の疲弊に端を発する事件は再発しかねないと警鐘を鳴らす。
「いのちはいのち」でしかないから、もちろん粗末に出来ないし、命の前に全てが許されたり罰せられたりするものでもない。今回の事件を紋切り型の異常犯罪に片付けてしまう単純思考が一番怖い。