『カーニヴァル化する社会』

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鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書 2005)を読む。
TBSラジオの「文化系トークラジオLife」のメインパーソナリティを務める「チャーリー」の著書である。
液状化する労働観、情報化社会における監視、自分中毒としての携帯電話という3つの側面から、カーニヴァル(社会共同体の祝祭とは異なり、共同体から逸脱してしまった若者が瞬間的に盛り上がりを共有することで、孤立感を忘れ集団への帰属感が高揚する機会)の原理を解き明かそうとする。
「ニート」を中心とした若者の労働を巡る社会状況や、監視カメラではなく、データの蓄積という目に見えにくい監視システムのありよう、そして、ひたすら内面化していくコミュニケーションの分析から、分断化された個人と、それゆえにある些細な共通項で爆発的に盛り上がる(ブログ炎上や国際スポーツでの狂騒など)原因について社会学的に分析が加えられる。後半は社会学のタームを用いながら構造を明らかにするという高度な内容で、最後は理解が追いつかなかったが、ケータイやワールドカップといった分かりやすい具体例で、すいすいと内容に入り込むことができた。
著者のまとめの言葉が印象的であった。現在私たちが生活する社会と個人の関係を解き明かす社会学という学問について触れながら、彼のラジオでの口癖となっている「である以上」という語を交えつつ次のように語る。

「いかにあるべきか」の前に、「いかにしてあるのか」を徹底して問う、というのが、社会学という学問のあり方だとするならば、現在の私たちは誰も「いかにあるべきか」を語りうるほどに、現在についての知識を蓄積していると私は考えていない。である以上、もうしばらくは「いかにしてあるのか」について問い続ける必要があるといえよう。社会的な危機が様々な方面から指摘され、「べき論」の溢れる現在だからこそ、そうしたモラトリアムこそが必要とされているのではないか。

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