地上波で1年以上前に放映された、第42回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作、ローレンス・カスダン監督『わが街』(1991 米)を観た。
人種差別や言われようのない暴力、家族離散など人間の絆がなくなっていくロサンジェルスに暮らす市井の人々の生活を描く。原題が『Grand Canyon』となっており、最後は登場人物全員がグランドキャニオンに臨むシーンで終わる。地学的な時間に比べれば本当にちっぽけな存在に過ぎない人間の人生を達観したような登場人物たちの表情が印象的であった。
月別アーカイブ: 2012年8月
『いかレスラー』
社会的隔離
本日の東京新聞の「こちら特報部」は福島県教組が作成した放射能を考える指導本についての記事と、発達障害被告に求刑を超す判決が言い渡された問題の背景に関する考察の記事であった。
発達障害の方は、約30年間引きこもり生活を送っていた42歳の男が姉を包丁で刺殺した事件で、大阪地裁は求刑16年を4年も上回る懲役16年を言い渡した。被告が逮捕後の検察の精神鑑定でアスペルガー症候群と診断され、「母親らが同居を断っており、被告の障害に対応できる社会の受け皿がなく、再犯のおそれがあり、許される限り長い期間刑務所で内省を深めさせることが社会秩序のためになる」という理由のためである。
この判決について、精神障害者の当事者団体「全国『精神病』者集団」の山本真理さんは「犯罪行為そのものを罰するのが刑法のはず。障害者だから罪を重くするのは、障害自体を罪として罰しているのと同じ。明らかな差別だ」と話す。また、母親らが被告を受け取らない以上、社会に受け皿がないから刑務所へという判断についても「社会の支援不足を障害者個人や家族の責任に転嫁することは、本末転倒だ」と批判している。
さらに、龍谷大法科大学院の浜井浩一教授は「発達障害そのものが重大犯罪の原因ではない。犯罪の多くは突発的。発達障害を理解してもらえないことから生じる『二次障害』が、強い被害念慮(確信はないが、被害を受けていると感じること)などを生み、それが発達障害特有のこだわりと結びついて起こされる。適切な対応によって二次障害をケアすることで、重大な結果を妨げる」と話す。また、「日本の刑事司法は更正や社会復帰を全く考えていない。家族や病院、福祉施設にも見放された時、断らないのは刑務所だけ。困ったときは刑務所へとなる」と批判している。
「発達障害」や「精神障害」についての正しい知識と理解がまずは社会の広い層で求められる。「怖い」「気味が悪い」といった未熟な感情レベルではどうしようもない。「学校の理解がない→卒業後の進路指導がない→働く場や学ぶ場がない→家に引きこもるしかない→家族に押しつけるしかない→全ては本人の自己責任」という負の連鎖が日本社会に根強く蔓延っている気がする。まずは学校現場での理解が先決であろう。
あとがきの「デスクメモ」が印象に残った。東京新聞ならではの慧眼な姿勢が垣間見える文章である。
脱原発の合間に水俣病や障害者差別の問題を取り上げる。ただ、個人的には問題の根は同じに映る。つまり差別だ。脱原発デモの高揚はすばらしい。しかし、ともすれば市民主義とか民主主義といった美辞の間に差別は隠される。泣く人はいつも少数者だからだ。障害者も、福島も孤立させてはならない。
『ミスティック・リバー』
『地図の歴史:日本篇』
織田武雄『地図の歴史:日本篇』(講談社現代新書 1974)を読む。
先日来、今年の夏休みで四国の酷道(国道)を突っ切ろうか、紀伊半島を周遊しようかと、地図とにらめっこしていたので、ふと手に取ってみた。
新書にしては随分と版を重ねている本で、手にしたのは2002年発行の第18版であった。
放送大学の教科書か地理学の参考書のような内容で、奈良時代の行基によって描かれた地図と江戸時代伊能忠敬の実測日本図の二つを柱としながら、荘園管理や参勤交代、鎖国などの政治テーマと密接に絡む地図の歴史について述べられてる。特に軍事的理由から正確な地図を表にしたがらない江戸幕府が伊能忠敬の地図を半世紀もお蔵入りさせたエピソードなど興味深かった。
冒頭、筆者は次のように述べる。
地図とは、大地にしるされた人間の足跡であり、未知の地への飽くことなき願望の証しであり、それはそのまま、それぞれの時代の人間が、どのように世界を把えていたかを、私たちに示してくれる確かな歴史であるといえよう。
単純に高校生が憧れそうな格好いい文である。筆者は地図の進化の歴史が、人類の世界認識および行動範囲の拡大の歴史であると定義付けている。