上原隆二・上原僚子『雑草魂の育て方』(ゴマブックス 1999)を読む。
数年前の読売巨人軍の上原浩治投手の華々しいデビューにあやかって出された本である。上原投手のキャッチフレーズともなっている「雑草魂」の生みの親であり育ての親である両親のコメントを膨らまして一冊の教育本に仕立て上げられている。一般的な文科省的教育論を否定し、「放任主義でいいじゃないか」「小さい子は叩いて教えろ」「テレビゲームも夢中になっているならどんどんやらせろ」といったように、この手の本にありがちな豪放磊落な教育論で強引にまとめられてしまう。
月別アーカイブ: 2006年5月
『「脳」を知る、「脳」を育てる』
久保田競『「脳」を知る、「脳」を育てる』(創教出版 1999)を読む。
人間の脳の活動を支えるシナプスの数は生後10ヶ月でピークを迎える。そのため生後まもなくから、五感の全てに刺激を与えることと手足の運動が幼児教育に最も大切だと説く。また、有意な言葉をしゃべらないゼロ歳児にこそ、言葉で以て話しかけることが大切だと述べる。保育園・幼稚園に入ったら、ままごとや鬼ごっこ、ヒーローごっこなどの「ごっこ遊び」が重要である。「ごっこ遊び」は脳のワーキングメモリを発育するのに最適であるそうだ。
今日は子どもが騒いで疲れたので、まとまらない文章もこの辺で。
『地平線への旅:バイクでやったぜ北極点』
子どもの睡眠リズムに付き合ってしまい、夜眠れなかったので、深夜ソファーで読書に耽った。
風間深志『地平線への旅:バイクでやったぜ北極点』(文藝春秋 1989)を読む。
表題通り1ヶ月半掛けてカナダの沿岸の島から北極海に浮かぶ氷の上を走り北極点に至るまでの冒険旅日記である。日記の途中でヒマラヤやパリダカでの苦労の回想シーンが挿入され、風間氏のスケールの大きい冒険談が同時に展開される。風間氏は「冒険」について次のように定義付けする。
冒険は、一般的にはその多くが学術的意義を伴う「探検」と違い、きわめて私的な行為であるといえる。最高峰の頂に立とうが、大海原を航海しようが、その結果が目に見えて社会や人類に、何かをもたらすというものではなく、「なんと酔狂で、もの好きなことよ!」と言われれば、全くそのとおりに違いない。
俺にとっての冒険は、もっと生きたいから、もっとよりよく生きるために、その未知なる空間へ第一歩を踏み出す行為なのである。たとえ、冒険はいのちを擦り減らす行為だという、一つの定義に甘んじたとしても、人生すべからく自分の肉体を張って生きているようなものなのだ。それならば、自分の意思において、自分の納得するいのちの擦り減らし方をする方がずっとましだといえる。きっかけ、入口?は、一人一人何であってもかまわない。(中略)冒険は、入口が何であれ、スタイルが何であれ、それが代償のない精神の旅である限り、その出口は、自然・人間・宇宙の”真理”に近づこうとする意志という、一つのところへ繋がっているような気がするのだ。
『痴呆症はここまで治る』
大学のレポートを書くために、小阪憲司『痴呆症はここまで治る』(主婦と生活社 1998)を読む。
痴呆症を引き起こす疾患の要因について簡単に触れ、実際に痴呆症の高齢者を介護するにあたっての対処法がまとめられている。徘徊や物忘れ、失禁などの痴呆に伴う症状をただ否定するのではなく、「病気」であるということを理解し、同時に、高齢者の尊厳を大切にする接し方が大切であると述べる。
『漢字と日本人』
高島俊男『漢字と日本人』(文芸新書 2001)を読む。
日本語と漢字の歴史を掘り起こしながら、日本語にとって欠かすことのできない漢字が、逆に日本語をややこしいものにしてしまっていると述べる。「言語というのは、その言語を話す種族の、世界の切りとりかたの体系である。だから話すことばによって世界のありようがことなる。言語は思想そのものなのだ」と述べ、言語は国民性や歴史と深く結びついたものであり、いたずらにローマ字表記に改めようとする政策や「ほ乳類」などの簡易表記、森「鴎」外といった略字表記を痛烈に批判している。「文藝春秋」的なプチ国粋主義を醸し出しつつ、日本語は和語と漢語のちゃんぽんという「畸形」のまま生きてゆくよりほか生存の方法はないと、言語の連続性を主張する。
また、赤ん坊が一番出しやすい音は唇音(上下のくちびるをはじいて出す音、つまりm音とp音とb音)だから、世界中どの人種の言語でもたいがいお母さんを呼ぶ言葉は唇音であるということや、国語審議会のそもそもの発足の意図は漢字の廃止とローマ字採用にあり、その趣意に賛同したのが読売新聞で、題号が横書きなのはそのなごりであるとか、作家山本有三が当用漢字表にいったん外されかかった「魅力」の「魅」の字を復活させたというエピソードなど、漢字に纏る豆知識が面白かった。