月別アーカイブ: 2002年7月

ヤクルトのお化け

今日ヨーカドーの地下食品売り場で、ヤクルトのお化けのようなものを買ってきた。写真を見ても分からないが、これで500ml入りなのだ。味はごく普通の乳酸菌飲料である。余談であるが、この手の飲料は他にもたくさんあるが、すべて「ウォークマン」と同じように、「ヤクルト」という商標名でくくられがちである。何かうまいネーミングはないのだろうか。

学校経営と学校図書館レポート No.2

私が資料の中で面白いと思ったのは、アメリカで増えているチャータースクール、つまり「手作りの公立学校」の話である。現場の教師、保護者や地域住民が地元の教育委員会に認可を申請し、公立学校にふさわしいかどうか審議され、実際に入学してきた生徒の数に応じて、公的資金が配分されるという仕組みである。

日本全国の多くの塾や学校がこの制度を導入し、独自の教育観で学校を運営するならば、今の日本の教育の停滞も多少は解消できるだろう。なぜならば、今特に若い教師は既存の様々な仕事をいかにして「おとがめなしに」減らしていくかということに終始し、新たな提案や創造的な取り組みを行う余裕を奪われている。このチャータースクールでもう一度現場から発言していく環境を創っていくことが、一番の教育に情熱を取り戻す好機となるはずである。図書館司書教諭もまずはその土台である学校内の環境作りに目を向けていかねばならない。

参考文献
高嶋哲夫・小篠弘志(2000)「日本版チャータースクールの試みに物申す」『塾を学校に』東京:宝島社

学校経営と学校図書館レポート No.1

今回の授業を受講し、改めて羽仁五郎が起草したといわれる、国会図書館法の前文にある「真理がわれらを自由にする」という近代図書館の持つ精神の重みを感じた。図書館というと便利な公共サービスという認識しかなかった私は、図書館の抱える「自由」に対する責任について考えを改めざるを得なかった。

図書館法は直接的には社会教育法第9条に依拠しているが、大きくは憲法19条の思想及び良心の自由、そして憲法23条の学問の自由その論拠を置くものである。つまり図書館の自由を守るということは、単に貸し出しを増やし、図書館法第2条に定められている「一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資する」だけに留まらず、憲法で定められた自由主義や平和・民主主義を守っていく運動につながっていく。戦前為政者の意向で、多くの文学や重要なニュースが国民の目に触れられず闇に葬られ、この国から正常な政治判断が失われてしまったことを想起すれば尚更である。

図書館自体が民主的で平和な社会を基盤とし、その民主的で平和な社会は憲法12条(「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」)にもある通り、国民の総力によって守られなければならない。そしてそうした国民の正しい判断力を養う場として図書館が存在しなければならないのである。つまり平和で民主的な社会と、そうした理想を実現すべき学校教育と、図書館はこの社会を支えていくにあたり必要不可欠なものである。「真理がわれらを自由にする」という標語は「われらが真理を自由にしなければならない」と読み替えてもいいだろう。

参考文献
鷲山恭彦『「真理は我らを結びつける」−図書館長の就任挨拶にかえて−』「東京学芸大学図書館ニュース第28巻第1号」1999年6月

聖学院大学

明日から聖学院大学というところへ図書館司書教諭講習に出掛ける。大学で学ぶというのは久しぶり(いや初めてなのではないか?)なので楽しみだ。しかし夏休みの大半が講習で潰れてしまうのは痛い。せっかくの機会なので授業受けながらいい刺激をもらいたい。

聖学院大学ホームページ

『祈りと願いの私学教育』

川端幹雄『祈りと願いの私学教育』(チクマ秀版社)を読む。
著者は淑徳与野高校の校長を経て、埼玉私学教育研究所長、埼玉県私学中高協会の理事を務める、埼玉の私学関係者界隈には有名な人物だ。前半部は過去半生の回顧録となっており、組合対策等の思い出など読むところはない。ただ後半部、第三章では「仏教の教えと祈り」と題され、学校教育の中に仏教教育を現実的にどのように生かしていくのかという論が展開されており、なかなか面白かった。筆者は学校教育における仏教を次のように簡潔に定義する。

仏教主義学校に集うものは感謝と奉仕と信頼の輪で結ばれた学校を創り育ててゆくわけですが、これを支える思想が「共生思想」です。共生とは共存でも併存でもなく、また協調でも妥協でもありません。お互いに異なるもの、さらにいえば相対立するものさえもが、相互に必要とし合っているという真実に気付き、自分を活かし、他者も積極的に活かして生きる思想です。

この点をどのように現実の学校現場で具現化させていくのか、なかなか興味深いところである。拝外主義が横行する世間で、異物である他者を認める教育がどのように実現されるのであろうか。