五木寛之『海峡物語』(講談社文庫)を読み返す。
『艶歌』(「小説現代」1966年12月号)に続く高円寺竜三主人公の作品である。演歌という日本人の保守性の塊のようなものから日本の戦後経済成長の激しさを伺う作品である。
最近疲れがたまっていて読書の時間もろくに取れない。もう少しで仕事が一段落するので、さまざま自分を見つめ返す時間にしたいと思う。あと5日でここ3、4ヶ月の忙しさがひとまず終わる。
五木寛之『海峡物語』(講談社文庫)を読み返す。
『艶歌』(「小説現代」1966年12月号)に続く高円寺竜三主人公の作品である。演歌という日本人の保守性の塊のようなものから日本の戦後経済成長の激しさを伺う作品である。
最近疲れがたまっていて読書の時間もろくに取れない。もう少しで仕事が一段落するので、さまざま自分を見つめ返す時間にしたいと思う。あと5日でここ3、4ヶ月の忙しさがひとまず終わる。
山根一眞『整理(情報の仕事術)』(日本経済新聞社 1989)を読んだ。
最近ノートパソコンが欲しくて仕方がない。ノートパソコンを買えばあらゆる仕事・趣味が一元化されて頭の中がすっきりするのではないかとつくづく感じる。勤務先でウインドウズを使って成績処理等し、プリント類はカシオのワープロで作成し、家ではマックを使うというのは、どうも無理がある。フロッピーが問題なく互換で使えればよいが、しょっちゅうエラーを起こすので困る。
先日『MacFan』(毎日コミュニケーションズ)に新しいマックのパワーブックの情報が載っていた。今度のパワーブックはいよいよG4搭載でワイド液晶が採用されるそうだ。時期パワーブックに関する予想サイトがウェブ上にたくさんあるが、それらのページを見るのはかなり楽しいことだ。マックはウインドウズと違って道具に徹してくれるので、文房具を選ぶような感覚がある。来年の1月には次期パワーブックが発表され、2月24日はマックOSXが発表されるそうだ。
松本清張『表象詩人』を読んだ。
詩をモチーフにした作品で、大正期の事件を昭和の「現在」から振り返るというものであったが、その昭和がもうすっかり過去のものとなった現在に感じる違和感はもうすこし分析していく必要あり。
李恢成『われら青春の途上にて』(講談社)を読む。
これまでの日本人が忘れてきた在日の問題、とりわけ日韓基本条約以前の、そしてサンフランシスコ条約締結以前の問題を強烈に浮かび上がらせている。収録作の一つである『死者の遺したもの』(群像1970年2月号)という作品は、在日の父親が急死し、その葬儀を総連と民団の共同葬で行ってはという提言を巡って、兄弟が政治に翻弄されながらその家族の絆を見つけて行くという話である。私たちがついつい見逃しがちな朝鮮戦争の問題に光を投げかけている。そういえば先日朝銀東京事件に際し、朝鮮総連の本部に警察が入ったが、歴史的側面から総連と民団について報道しているところはなかった。
先日生徒会の生徒と韓国大使館へ出掛けた。そこで韓国側の青年は日韓併合以降の35年の支配の歴史を忘れてはいけないことを強調していた。韓国がなぜ日本文化の流入を制限してきたのか、それは日本が植民地支配の際に言語を奪い、名前を捨てさせるという非道な行為に出たからだ。だからこそ来年のワールドカップを日韓の架け橋にしたいと結んでいた。私は韓国の高校生が統一についてどのような考えを持っているのかと質問したが、明確な回答は得られなかった。いずれにせよ、私たち日本人は統一の問題に関し、その大きな阻害要因となりうる、米軍の基地問題、安保に向き合わなくてはならないだろう。
12月4日付けの東京新聞の朝刊に愛知万博を礼賛する社説が載っていた。「愛知万博が国家プロジェクトである以上、地元はもちろんオール日本での盛り上げが重要である。万博協会は基本計画を手に、企業に出展要請するため全国行脚をすべきだ」と協賛企業根性丸出しの論である。この辺りに中日新聞の意向から逃れられないブロック紙の限界を感じざるを得ない。読売グループに対する批判的記事や微に入った文化評論、科学記事の解説など読むに値する記事も多いだけに残念である。
また今日の東京新聞の夕刊に「原爆ドームに落書き」という記事が載っていた。
7日の朝に世界遺産「原爆ドーム」の外壁に「NO MORE RACIZM(人種差別をやめよう)」と書かれていたのを事務所の職員が発見し、110番したというのだ。記事ではコメントを控えていたが、読み方によってはかなり興味深い記事である。日本人の原爆ドームに対する捉え方は得てして被害者側の感情が一般的である。日帝によるアジアへの侵略戦争の終止符となったという認識は薄い。文学においても井伏鱒二の『黒い雨』や、中沢啓治『はだしのゲン』など、一応反戦の体を成しているが、そこに日本人としての加害者意識は伺うことはできない。また原爆投下後の広島において在日朝鮮・韓国人に対する虐待も教科書から消えてしまっている。原爆ドームに対するこうした落書きこそ後世に残していくべきものではないか。