月別アーカイブ: 2001年11月

『少女マンガ家ぐらし』

北原菜里子『少女マンガ家ぐらし』(岩波ジュニア新書)を読む。
一つの作品が完成するまでの作者のどたばた劇が分かりやすく展開されていた。この北原さんは80年代半ばに少女誌「りぼん」でデビューしたそうだが、当時集英社が発行する「リボン」と「ジャンプ」の二大週刊漫画誌には様々なマンガ家が名を連ねていた。現在の「80年代リバイバルブーム」の牽引役となっている。

そういえば当時の「リボン」で連載していた岡田あ〜みんの『お父さんは心配症』は印象に残る作品だった。少女漫画というキラキラ目の恋愛ものというカテゴリーから完全に逸脱していた。

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『ザ・有名私立』

寺田隆生『ザ・有名私立』(三一書房)を読む。
題名からすると、受験案内のマニュアルのような雰囲気だが、さすが(?)というべきか、三一書房だけに日本における私学教育全般への批判、公立教育への疑問がベースになっている。そして「ウパニシャッド」哲学の「輪廻転生」の教えから、子供は親の付属品ではなく、一人一人の人間が「梵我一如」を希求する魂を宿しているものであり、それゆえに「幸福である自分」を探すことが大切だと述べるのだ。その点の見解の一部を引用したい。

「情けはひとのためならず」という。(中略)ひとに情けをかけておけば、それがやがて、めぐりあって自分にもどってくる。情けをかけるのは、ひとのためではなく、じぶんのためなのだ、という意味である。だがこれでは、情けをかけるのはそのときはいやいやながら、いつか自分にもどってくる自分への利益を期待してがまんしてそうしようという、いかにも下心が露骨であろう。私はむしろ、一歩も二歩も踏み込んで、情けをかけるそのこと自体が波紋をひろげることだと解釈したい。情けはかけてあげるのではなくて、かけさせていただくのである。それを波紋を起こす石の形や種類と組み合わせれば、個性の発見と自分らしさへのこだわりが、いかにも大切なものかがわかる。

「ドラゴンクエスト1・2」

昨日「ドラゴンクエスト1・2」(エニックス)のSFC版をマックのエミュでクリアーした。
15年前には感動したエンディングにも何かしらの味気なさを感じた。単純なストーリーなので、わずか数時間で解くことが出来た。中学の時楽しんでいた時は装備した「皮の盾」や「鉄のよろい」等はすべてこまめに「道具屋」に売っていたが、金銭感覚が変わってきたのだろうか、面倒くさいので、すべてより強固な装備を手に入れた段階ですべて「捨て」てしまった。気付いたら「薬草」や「魔法の鍵」等も「大人買い」をしていた。続いて「ドラクエ2」を始めたが、如何せんキーボードなので、体が疲れて仕方がない。こちらの方はクリアーするのはまだまだ先であろう。

『蒼ざめた馬を見よ』

五木寛之『蒼ざめた馬を見よ』(文春文庫)を十年ぶりに読み返す。
冷戦時代の60年代の作品でありいささか時代状況が古いが、正直面白かった。高校の時分にどのような感想をもっていたのか忘れてしまったが、全共闘運動華やかりし頃、バリケードの中で学生に支持された作家として五木寛之と高橋和己の名前が取り上げられるが、デビュー当時の五木氏の作品には確かにその息吹きを感じる。しかし現在の五木氏の作品から往時の迫力が消えてしまった点については様々な時代の分析待たれるであろう。

生徒への返信〜聖書

『創世記』を巡る解釈は無数にあると思うのですが、「禁断の果実」は人間の好奇心の象徴であり、神の言い付けを破ってしまうほど、人間は好奇心に溢れている動物であり、そして特に男性がその時々の社会的規範を逸脱しがちであるということを示唆しているというのが一般的な解釈ではないでしょうか。そしてエデンの園を追われた人間の先祖はその誕生から神に見放された存在であり、以降のバベルの塔や勇者ロトの悲劇の記述につながっていくのではなかったでしょうか。高校時代に読んだ聖書の記憶を今たどっているのですが、はっきりしません。抑圧と解放という観点ではなく、神への信心と好奇心という観点で見ていくべきものではなかったかと思います。抑圧と解放という視点で言うならば他にどのような具体例が挙がるでしょうか?