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昇段審査

nioumon

昨日、香川にある財団法人少林寺拳法本部へ昇段審査を受けに行った。受けに行くと認可された以上は、ほとんど落ちることのない試験なので気持ちは楽であったが、自分自身納得できないのは嫌なので、時間のやり繰りをしてこれまでの技術の総復習を行なって臨むことになった。しかし、あいにく左手の親指の付け根が腫れ上がり、右手の手首も痛め、怪我の状態を鑑みながらの受験となってしまった。自分の練習不足をつくづく実感した試験であったが、何とか允可状をもらうことができた。次の5段受験は10年後であろうか。今度はみっちり練習して臨みたい。

往路では台風の影響で飛行機がめちゃくちゃ揺れ、何年かぶりに乗物酔いを味わった。「そういえば俺は乗り物に弱いんだった」と、改めて小学校中学校の頃の遠足の風景を思い返した。幾つになっても、胃がごろごろするようなあの感覚は嫌なものである。
以下はいつもの如く、これまで読んだ本を参考に一日で仕上げた審査の宿題である。

少林寺拳法第一編要約

今年は戦後六〇年にあたり、「戦後」という言葉すら還暦を迎えてしまった。二度と戦争をしないとの誓いが込められた日本国憲法九条の改正に国民の過半数が賛成していることに象徴されるように、戦争の悲惨さを反省したり平和の尊さを願う国民意識も薄れつつあるように思う。
太平洋戦争の終結と時を同じくして設立されたユネスコの憲章の前文では「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と謳われいる。つまり戦争を止める、平和な社会を実現に向けた第一歩は一人一人の人間の育成にあると述べられている。
日本の国の教育の基本方針を定めた教育基本法の前文には「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と述べられている。法治国家である以上、国の在り方は憲法によって規定されているが、その憲法の精神を受け継ぎ、具現化していくのは国民一人一人であり、国を担う良識ある公民をつくるのは教育以外にないのである。
二〇〇一年のテロ以降、戦争をすることが「国際貢献」、「大国の責任」と騒がれ、つい六〇年前の日本の犯した戦争犯罪や原爆の辛い記憶も遠い歴史の教科書の一頁になってしまったのだろうか。
私たちは、開祖宋道臣の体験した戦争の惨状、そしてその深い反省に根ざした平和への思い、そしてその平和を実現するための勇気と自信を持った人づくりという少林寺拳法の根本精神に今一度立ち返っていくべきである。そのような反戦・平和を実現していく行動力を持ったリーダーを一人でも多くという開祖の願いを念頭に、教範を私なりに要約してみたい。

一、少林寺建立の目的と金剛禅の成立
一九四五年八月九日、長崎への米国による原爆投下に焦った旧ソビエトは突如日本の傀儡国家である満州へ進入を始めた。無防備であった日本人の多くはその後長い間シベリアの凍土で捕虜として辛苦を極める生活を強いられれることになった。しかし、そのこと以上に屈辱であったのが、ソ連侵攻時、同胞である日本人を守るべき関東軍は日本人を裏切り、一人残らず消えてしまっていたことである。
その時、開祖宋道臣はそれまで日本人の残虐な政治の犠牲となっていた中国人の助けを得て生活を立て直す中で、法律も軍事も政治の在り方も、イデオロギーや宗教の違いや国の方針だけではなく、その立場に立つ人の人格や考え方の如何によって大変な差が出るということを実感した。そして「人、人、人、すべては人の質にある」、すべてのものが「人」によって行われるとすれば、真の平和の達成は慈悲心と勇気と正義感の強い人間を一人でも多く作る以外にはないと気付き、帰国したら、志のある青少年を集め、これに道を説いて正義感を引き出し、勇気と自信と行動力を養わせて、祖国復興に役立つ人間を育成しようと決心するに至ったのである。
ちょうどこの開祖が思いを固くした時期を同じくして、リトアニア駐在の日本領事代理であった杉原千畝氏の活躍に触れておきたい。ナチスドイツによるユダヤ人狩りが凄惨を極めた一九四〇年に、杉原氏は自らの信念と独断でユダヤ人難民が強制収容所送りにならないように日本の通過ビザを発給し、六〇〇〇人ものユダヤ人の命を救った人物として有名である。彼は外務省の指示を無視し続け、汽車で脱出するときにも、汽車の窓から最後までビザを書き続け、一人でも多くのユダヤ人を救おうと行動を起こしたのである。日本国の看板を背負う外交官という立場ですら、その人の人格や考え方の如何によって大きな差が出るのである。
戦前の日本国内にも戦争に反対する平和主義者や共産主義者はたくさんいた。しかし、正確な現状分析ができていても、仲間を集い行動できる人は少なかった。大切なことは自らの勇気とそれを実現できる行動力と、そして一人でも多くの仲間を作っていくことである。
帰国後、開祖は中国で修得してきた北少林義和門系阿羅漢之拳を、青少年に不屈の精神と金剛の肉体を錬成させる少林寺拳法として再編し、同志を募り始めた。阿羅漢之拳は相手を倒し、相手に勝つことを目的とするものではなく、己に克ち、心と体を整えて、技術を楽しみながら自他共に上達を図るという護身練胆と、精神修養、健康増進の三徳を兼ね備えた法である。この法を教えることで青年に自信と勇気を与えることができると確信した開祖は、「拳禅一如 力愛不二」の法門として、金剛禅と名付けたのである。

二、正しい釈尊の教え、因縁について
「因」とは直接的原因であり、「縁」とは間接的条件のことである。つまり一つの結果には「必ずそうなるべき原因に、そうならせた縁由が加わって、そうした結果を生む」という意義をあらわした語である。本来釈尊が説いた因縁とは「現在の結果を見て過去の因を知り、現在の因を見て未来の果を知れ」ということであり、日々の反省の上に立ち、正しく現実を見る力を養うことを説いたのである。
すなわち、私たちは全てのものは、常にこの、過去・現在・未来と絶えず循環する因縁の法則の中に存在しているという唯物論的認識を持たなくてはならない。人間は現世における善因善果、悪因悪果の法則を信じて精進すべきことを教えているのが仏教の因縁説なのである。決して先祖の死霊のたたりや神仏の罰を説くための言葉ではないことを知らなければならない。

三、正しい釈尊の教え
釈尊の教えとは、人間の期待と事実が反して、苦しみ、悩む心を人間自身に反省させて、不幸災難に打ち勝つ力を、人間の心の中につくらせて、安心立命を得させようという教えである。つまり、期待と事実が矛盾したときに、事実をそのまま見つめて、何故にその事実が自分にとって苦しみであるのか、そしてその苦しみは何が原因であるかを追求して、事実の生じた原因が自分の欲望にあることを知り、事実が期待に背くから苦しみを起こすということを反省させる教えなのである。
釈尊が悟得されたことは、世の中の出来事が、自分の思うようにならぬときに、思うようにならせようとして苦しみが始まることを知り、その思うようにしようとする心を反省して、自我の心をつきとめ、自我心を改造して、安心の境地に入られたのである。事実を欲望から出た期待通りにすることは絶対不可能なことであるから、その欲望を征服し、欲望を浄化させることが正しい解釈法であると、教えるのが釈尊の正統仏教である。
仏教の原典研究で著名な平川彰氏は仏教の教えを端的に一言で言うならば「中道」だと述べる。以下平川氏の著書の中から「中道」の定義の部分を引用してみたい。

中道とは、調和を実現する智慧です。たとえば、一メートルの中間は五〇センチですが、その中間点を見つけるためには一メートルの全体を正しく見なければなりません。つまり全体を正しくつかむことが、中を発見する前提になる。われわれがなんらかの問題に対して中道を見つけるためには、その問題がどれだけの範囲にあるか、その問題の全体を見通さねばなりません。この全体観ということが、中を実現するための第一段階の智慧です。つまりその事件、その問題を正しく見通す、問題に対してじゅうぶんな認識を持つ、理解を持つことが、中道の第一の条件になります。
第二は、その全体において、中を選び取ることが必要です。つまり全体観についての正しい智慧、批判的智慧が必要なわけです。一メートルのまん中というのは、問題が簡単なので容易に中が見つかりますが、複雑な事件の場合には、その中を見つけることは容易ではありません。見つけるためには利己心を捨てることが要求されます。つまりわれわれの現実の問題は、我と汝の世界において展開するものであり、われわれに自己を重んずる、自己の利益を捨てられない、というように利己心がある場合、我と汝の中間を見つけることはほとんど不可能です。われわれが中を発見しようと思えば、この利己心を捨てなければなりません。つまり中は公平なる精神から生まれるといえます。また中というものは選び取るものであって、そのためには正しい批判が要求されます。中は批判的選択の智慧です。

 平川氏は仏教を修得することで我執を越えて物事の調和のポイントを見つけることができると述べる。戦争や差別など人間の利己心や自己中心的な考えから生まれる問題が様々あるが、我執を越えた人間社会の平和、平等といった調和を目指すことが正しい釈尊の教えなのである。

四、釈尊の予言と仏教の本質
ここでは宗教学者の山折哲雄氏の著書を紹介したい。山折氏は、仏教そのものがブッダの教えを否定した一番弟子アーナンダ以降作られた歪んだ教えであるとし、ブッダの生き方そのものを追究することが現在の仏教徒に課せられた課題であると述べる。ブッダは死の直前に「アーナンダよ。お前たちは修業完成者(=ブッダ)の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。」と述べたという。しかしアーナンダは師の教えに背き、ブッダの遺骨を供養の対象とする「葬式仏教」の原形を作ってしまった。そもそも人間は生きる上で「老病死」の悩みから逃れることは出来ない。だからこそブッダは正しく「生」きる道を説いたのであるが、アーナンダ以降の仏教徒は、悟りを得た後のブッダをありがたがり、仏教をひたすら死後の世界の安寧を祈る「救済」の道具と化してしまった。そしてその救済のされ方の解釈学的なタコ壺にはまってしまったのが、現在の葬式仏教であり、大学の仏教学なのだ。少し長いが、山折氏の現在の仏教徒に向けたメッセージを引用したい。そのまま金剛禅の在り方をも示した文章となっている。

とすれば、あとにのこされた道は一つしかないだろう。大学の仏教学の門を出たアーナンダの徒は、仏教学の呪縛からできうるかぎり自分を解放するほかはないということだ。覚者ブッダの言説の網の目から脱れでて、俗人シャカがさまよい歩いたはずの世間へと転身していくことである。認識仏教の記憶から自由になって、実践仏教の空間へと自己の裸身をさらすことである。
ただしその実践仏教の広場には、どんな道しるべもなければいかなる方向指示版も立てられていない。どんな解説書もマニュアルも手にすることができないことを肝に銘じなければならない。俗人シャカが荒野をあてどもなくさまよい歩いたように、アーナンダの徒もとぼとぼ歩いていくほかはない。そうの彷徨・放浪の中で唯一たしかなことは、覚者ブッダの言説をただオウム返しにくり返すことではなく、いったいどうしたらその真理の言説に近づくことができるのかということを考えつづけることではないだろうか。もっとも、残念ながらそのための簡便な教科書などというものは一つもない。が、それだからこそ、その実践仏教の現場においては、すべてのことが許されているということもできる。アーナンダの徒は、それ以後は自分の才覚と知恵を総動員して手探り人生を歩いていくほかはないのである。覚者ブッダから俗人シャカへと仏教の歴史をさかのぼっていくこと、―そこにこそ現代に生きるアーナンダの徒の起死回生の道が横たわっているのではないだろうか。

 山折氏は葬式と読経の儀礼に終始している既存の仏教徒をアーナンダの徒と蔑視し、シャカが真に悟った仏教の道に帰ることこそが仏教の原点であると述べる。
私たちも、釈尊の教えに立ち返り、祈祷やまじない、占いに惑わされることなく、日々を正しく生きることで現世に理想境を実現するべく同志とともに金剛禅運動を展開していかなければならない。

五、寺院、位牌、先祖まつりについて
仏教寺院のはじまりは、一所不住を立前とされた釈尊や弟子の比丘たちに、三ヶ月に余る雨期の安居を過ごしてもらうために、信者が建て施捨したものであり、誰の所有でもなく、昔は信徒や修行者の共有する場所であった。つまり、いろいろの信仰をもった僧尼の仮の止宿場所に過ぎず、各種の特色や特技を持った止宿の僧尼が近辺の住民を教化するに利用する公共的な所であった。しかし徳川時代のキリシタン禁制の政策や宗門改めの政策によって、仏教は幕藩体制を補完する封建制システムに組み込まれ、現体制を変えることなく、死後の世界の安寧を願うだけの宗教に換骨奪胎されてしまった。キリスト教や一向宗などの一部の宗教を除いて、多くの宗教が幕藩体制のイデオロギー装置と化してしまい、その教義や修行法も民衆の徳川体制に対するガス抜き以上のものではなくなってしまった。信仰の中心である寺院も、元々信徒の修行の場であるべき所が、いつのまにか儀式と偶像崇拝の殿堂に替えられてしまったのである。
また位牌や先祖まつりといった僧侶や信徒がありがたがるアクセサリーやイベントも、葬式仏教が編み出した詐欺的な仕掛けだと断言してよいであろう。現世の苦しみの原因が前世にあり、前世の因業に耐えることが後世で救われる唯一の手段だと現実の問題解決を先送りし、民衆を現世の矛盾から目を背けさせるために、戒名やら祖霊といった商法が生み出されたのである。
私たちの御先祖は生きている祖父母や父母であり、自分自身であり、子や孫であると考えて、父母や祖父母を敬愛し、自分を大切にし、妻や子どもを可愛がり、幸福な生活を送ることが最大の御先祖様への御恩報であると信じ、自他共楽の道を歩んでいかねばならない。

六、人間の苦悩の根源について
人間は生きている限り老いや病、死といった様々な悩みや苦しみを持つものである。つまり生きるということ自体が悩みの連続なのである。
私たちはしばしば辛い出来事に遭遇した際、「こんな人生は意味がない」「生きている価値がない」と自分の人生そのものを否定するような言葉を口にする。しかし人生に生きること以上の価値があるのだろうか。五木寛之氏は著書の中で、生きる目的について次のように述べる。

人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。さびしいだけでなく、むなしい。むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。人生の目的は「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言いかただが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってもいい。わたしはそう思う。そのためには、生きなければならない。生きつづけていてこそ、目的も明らかになるのである。「われあり ゆえにわれ求む」といのが私の立場だ。

 五木氏は生きること自体が人生の目的であり、苦しみや悩みもありのままに受け入れべきだと述べる。戦前のナチスドイツのユダヤ殲滅政策の中心となったアウシュビッツ強制収容所で死の寸前まで行った精神科医のヴィクトール・E・フランクルは著書の中で、極限の状態から得た「生きる意味」について次のように述べる。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

 フランクル氏も五木氏と同じく、生きるということに真摯に向き合うことが生きるということに繋がるのであり、生きる意味を探すことは、精一杯今の人生を生きること以外にないと述べている。

七、金剛禅の主張と願い
金剛禅というのは、生きている人間が、拳禅一如の修行をつみ、不屈の精神力と金剛身を養成し、まず己をよりどころとするに足る自己を確立し、そして他の為に役立つ人間になろうという、心身一如、自他共楽の新しい道であり、物心両面の正しい生活を、人間の英智の活用による無限の富の開発と、善意に立脚した、人間同志の拝み合い扶け合いにより確立し、現世において平和で豊かな、理想境を建設せんとする教えである。天国や極楽はあの世にあるものではなく、この世につくるげきものである。それは神仏がつくるものではなく、人間が協力してつくり出さなければならないものである。人間の心の改造と平和的な手段によって地上天国を実現させようとしているのが、金剛禅の主張であり、願いなのである。
ビートルズのジョン・レノン氏は『イマジン』という曲の中で「想像してごらん、天国が無いことを そんなに難しいことじゃあない 地獄なんてない僕らの上には空があるだけさ想像してごらん みんなが世界を分け合っていることを 僕が夢想家だって言うかもしれない だけど僕は一人じゃあないいつか君も仲間に加わって 世界が一つになることを 望んでいるんだ」と述べる。キリストの神聖を否定した彼も、天国や死後の世界に理想境があるのではなく、この世界に理想境を実現しなくてはならないと述べている。ジョン・レノン氏は現世で実現されるべき理想境を共に想像することを強調している。そこで彼の「仲間」を誘う手段は歌であった。
ジョン・レノン氏の「歌」を少林寺拳法に置き換えてみるとよい。私たちも少林寺拳法という共に平和を語りあうべき手段でもって、平和な一つの世界を築こうとしているのである。金剛禅の願いは少林寺拳法という仲間同士の絆を前提に平和な社会の実現に向けて行動する人を一人でも多く作ることなのである。

八、金剛禅の教義とダーマの意義・特性について
金剛禅の信仰の中心は、大宇宙の大霊力たるダーマである。「ダーマ」という語は元々梵語に由来し、インドの古い文献によれば「法則」「真理」「全宇宙を統一する力」「正義、最高の実在」「最高の本体」という意味をもつ語である。つまりダーマは宇宙の根本実相であり、私たち人間を含む世界全体の大生命であり、大霊力であると考えることができる。この大霊力を受け止める「霊止(ひと)」はこの大宇宙のダーマの分霊として生まれてきた万物の霊長であり、ダーマのお陰で、生きていることの大切さを子孫へと伝えていく使命を負っているのである。そうした認識に立って、私たちは、大霊力ダーマに信心帰依し、釈尊の説く、自己を確立し、己を拠り所とする道を極め、祖師ダルマの遺法を奉じて、精神修行し、霊肉一如の修行に精進するのである。

九、金剛禅門信徒の修行法
金剛禅は、在来の一般仏教のように、肉体を苦しめたり悟ったり、読経や祈祷や儀式をすれば救われるという教えではない。従ってその修行法も心身、霊肉の調和を目的として、精神と肉体をバランスよく修め、鎮魂行と易筋行の両方を正しく行う必要がある。

参考文献

名古屋国際高等学校教員グループ『若者に伝える戦争の真実』かもがわ出版 一九九五
平川彰『現代人のための仏教』講談社現代新書 一九七〇
山折哲雄『仏教とは何か』中公新書 一九九三
五木寛之『人生の目的』幻冬社 一九九九
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』みすず書房 二〇〇二

闘道館

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東京新聞記事
水道橋駅南には格闘技関連の店がいっぱい。中でも闘道館=電03 (3512) 2081=は書籍と雑誌に強い店だ。「最近、力道山の写真が豊富に使われた昭和三十年代のプロレスかるたを入手した」と泉高志館長が興奮気味に話してくれた。
(左似顔絵)

本日の東京新聞の後楽園周辺を紹介した記事に、私の大学時代の友人が経営する格闘技グッズを扱う「闘道館」が紹介されていた。「ニッチ」をうまく嗅ぎ分ける商才があったのか、格闘技ブームにうまくのり、経営も順調なようだ。格闘技に興味がある人は、是非立ち寄ってみてください!

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少林寺拳法昇格考試中拳士参段宿題

〈武道の在り方と行としての少林寺拳法〉

スポーツジャーナリズムの発展で、私が少林寺拳法を始めた十数年前に比較にならないほど、今「格闘技」が熱い。
バーリトゥードやK1などのテレビ中継に視聴者は釘付けである。空手や柔道・レスリングなどが「格闘技」というジャンルに一括されて、「男と男の熱い戦い」という看板を背負っている。KO狙いのグローブをはめた空手や、ポイントや体重判定などのルールに則った柔道・総合格闘技の試合などがその代表であろう。一昔前まで武道と名の付く大会はどこも、競技者とその関係者のみのアマチュアの大会であった。現在でも剣道がその良い例であろう。

しかしマスコミの影響で「格闘技ファン」といった観戦者が現れてから、武道の大会の性質も大きく変わっていった。よりファンに分かりやすく、ファンを納得させるような迫力のある試合へとルールを変更していった。そしていつしか道を学ぶ者までもが「選手」になり、賞金や名誉がついて回り、スポーツであるが故に、「現役」「引退」という時間が支配するようになった。

こうした「格闘技」に、特に日常生活の中で力を持て余し気味な青年男子層が情熱をもって取り組むのは大いに結構なことである。生活を懸けながら一つの物事に打ち込むということは素晴らしいことである。しかしマスコミで取り上げられるプロの世界とは無縁な大多数の人にとって、日常生活を犠牲にしてまで「武道」に費やす時間やお金はない。そのような私たちは「武道」に何をもとめ、そして「武道」は何をもたらしてくれるのだろうか。
「俺、武道やってるんだ」
「えっ。K1とか目指してるの?」
といった会話が交わされてしまう現在、もう一度プロではない大多数の私たちにとって、「武道」の原点を再確認していく必要があるだろう。

「武」と云う字は、戈と止むの二字よりなる会意文字である。「説文解字」の中に、武は撫なり、止戈なり、禍乱を鎮撫するなり、禍乱を平定して人道の本に復せしめ、敵を愛撫統一することが、武の本義なりと説いている。故に、真の武道と云うものは、人を生かして我も生き、人を立て我も立てられると云う、自他共楽を理想とする道を云っているのである。
(教範「武の意義と武道の本質」より)

教範にもある通り、「武」とは元来争いを止める技術であり、「道」とは「人の行なうべきこと」を表わす、漸漸修学の人間完成への過程である。よって「武道」の本来の姿は争いを止める技術を通して、単に技術や体力の向上だけではなく、長年通して人間的な成長を促していくものなのである。

ではここでいう「人間的な成長」とは何を意味するのであろうか。一言で定義付けを行なうのはいささか乱暴な議論であろう。しかし最低限言えることは、我々が生活しているこの社会は多くの人間で構成されており、社会の中で生きていくには、自分の欲望を抑えることが必要であるということであろう。あらゆる礼儀や挨拶といった作法、そして物事の判断や行動はこの個人と社会の相関関係に位置づけられる。

事実を自分の欲望から出た期待通りにすることは絶対に不可能なことであるから、その欲望を征服し、欲望を浄化させることが正しい解釈法であると、教えるのが釈尊の正統仏経である。
(教範「正しい釈尊の教え」)

またこのことは同時に社会をより良い方向に変えていくには一人の人間の力ではどうしようもなく、多くの人間との幅広い連帯を創っていかねばならないことを示唆している。こうした社会に規定された個人、そして個人の集合に規定された社会の関係を学んでいくことが、「人間的な成長」という議論に対する解答の糸口であろう。

それではこの人間の構成たる社会を少し眺めてみよう。戦後から六〇年近くが経過し、現在の日本は一定成熟した「民主主義社会」だと言われて久しい。貧困や飢えは表面上は一掃され、識字率も100%近く、国民全てが成熟社会の恩恵を受けていると捉える者も多いであろう。しかし、先日の小泉総理の靖国神社参拝などに見られるように、未だに日本政府・日本人戦争の問題を置き去りにしてきている。A級戦犯が合祀されている靖国神社を参拝する総理大臣を支持するものが大多数を占めるのだ。アジアとりわけ韓国や中国・台湾といった隣国への配慮はそこにはない。加えて近年日米安保の強化を狙うガイドラインの改定や沖縄の駐留米軍基地の整備・拡張、有事法制の研究等、日本は二度と進んではいけない戦争への道を再び進んでいる。
また「精神障害者」への法的な差別や「ホームレス」に対する行政の人権を無視した嫌がらせなど、「民主主義」という名のものに施行される差別が現存するのも事実である。

このような差別構造や平和を脅かす状況に対して是非とも声を挙げていかねばならない。それはたとえ一人でも自分の立場性の中から出来る範囲で行動していくことが大切である。しかし一人一人の人間は弱く、また人の一生も短い。たった一人の力で社会は変わらない。「半ばは自らの幸せを、半ばは他人幸せを」考えることの出来る人間と連帯を求めて行くことが必須だ。そのためにも社会状況・他人の幸せを考え合わせることの出来る人間を一人でも多く作っていくことが大切である。 少林寺拳法は本来金剛禅運動として出発した。現在は戦争の悲惨な記憶も風化し、少林寺を巡る環境も大きく変わってきている。しかし二度と戦争を起こしてはいけない、戦争にいたる状況を止めるために行動できる人間の育成を求めてこの金剛禅運動はある。現在の社会にいつも鋭い視線を持ち、社会の構成員たる人間は一人で生きているのではなく、生かされているものであるとの出発点に立つものでなくてはならない。

武道の在り方を巡って、武道団体の数だけ様々な主張があろう。しかし武道は相手を自らの手で痛み付けるという直接的な体験を契機としている。その峻烈な自他の在り様の確認作業こそが武道の原点である。自らの幸せが他人の幸せにつながっていくような人間と人間の関係、他人の不幸が自らの不幸になってしまうような関係の築き方を学ぶことに武道の現代的な意味が求められる。少林寺拳法における行とはまさにこうした武道を追い求めていく運動に他ならない。

〈日常生活の中で金剛禅の教えをどのように実践するか〉

昨今少年犯罪が相次ぎ、マスコミを賑わすことが多いが、なかなか解決策が見いだせない。少年犯罪や非行を防ぐにはまず第一に家庭であり、学校、そして地域社会の連携が不可欠である。しかし、それぞれに機能不全を起こしているといっても良い。警察や学校は「なるべく仕事を増やしたくない症候群」にかかっており、本来の業務に支障を来す問題に介入してこない。教員や警察官の試験が難しくなり、いわゆるエリート公務員が増えたためか、地道な生徒指導・地域での補導といった取り組みが手薄になりがちである。また家庭では「個性を伸ばす」ための自主尊重といった名目で子供に対して不干渉、自由放任がまかりとおり、親子の会話の不足に陥っている。また地域社会における連帯感はますます希薄なものになり、自治会の形骸化も行き着くところまで行った感すらある。

そのような現代日本の状況に対して、二〇〇一年四月二十三日付の東京新聞の社説を一部を引用したい。

母親は男の子が思春期の年頃になりますと、扱いに戸惑うこともあるでしょう。自分の体験からのアドバイスができないからです。父親の出番です。ところが、都会生活では、職業にもよるけれど父と子の接触密度は濃くありません。学校の男の先生との連携も、時間の制約で期待できません。昔の農・漁村で、年上の子が年下の子を体験的に教育する機能を持っていた、あの「村の青年団」とか「若衆宿」のような仕組みの現代版が、地域社会の中でつくれないものかと思います。

この論説委員の意見にもある通り、今必要なのは学校の授業や家庭ではなしえない「体験的な教育」ではないか。お年寄りが高校生や大学生の手を取って教える、また中学生が幼稚園児の道着の袖を掴みながら指導する、また半身不随の者が、人生経験を交えながら小学生と手を取り合うといった年齢を越えた触れ合いが大切だ。

現在の硬直化した教育制度の中で、子供たちは物心ついた時から同年代としか遊ばないため、歳上の歳下の人との触れ合いの「場」が少ない。現在やれ「ゆとり教育」だの「総合的学習」だの教育改革も騒がしいが、どれも子供たちを年齢で区切った学年という単位の中でしか行なわれない。「教員−生徒」という固定化した関係性が、学級崩壊を生み、子供自身がいつまでも「生徒」という受動的な立場に固定化されてしまい、教育の崩壊を誘発している状況に解決策が出されていない。

インターネットや携帯電話の普及で、ますます身体的な接触が希薄になる世の中である。学校現場でも教員が生徒の体に触れただけで「体罰・セクハラ」と言われますます形だけの進学教育がはびこってきている。いくら心の触れ合いが大切だと文部科学省やマスコミが喧伝したところで、実際の体の触れ合いのないところで、心の触れ合いはない。

金剛禅と云うのは、生きている人間が、拳禅一如の修業をつみ、不屈の精神力と金剛身を養成し、まず己をよりどころとするに足る自己を確立し、そして他の為に役立つ人間になろうという、心身一如・自他共楽の新しい道であり、人間同志の拝み合い援け合いにより確立し、現世に於て平和で豊かな、理想境を建設せんとする教えである。
(教範「金剛禅の主張と願い」より)

拳士である私たち自身が、少林寺拳法を老若男女が楽しめる技術だと一面的な捉え方をしがちであるが、本来金剛禅として少林寺を考えたとき、老若男女が行なえる技術としてではなく、老若男女が触れ会える「場」の獲得と考えることが出来るのではないか。かつて全共闘運動が華やかりし頃、「権力を持たない者は空間を持つことが出来る」というスローガンでもってバリケード封鎖を支援したものがいたが、今の拳士である私たちに求められているのは、それぞれの立場性の中での、「禅共闘運動」ではないか。社会全体が合理化・希薄化していく中で、老若男女が楽しめる身体的接触の場を求めるということは難しいことである。

私自身高校教員という立場性の中での「禅共闘運動」は生徒を「生徒」という立場から解放し、真に一人の人間として向き合い、心の成長を促していくことだと考える。