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「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措きて だれによるべぞ」

本日の東京新聞朝刊より
この記事によると、法華経160では「よくととのえし おのれこそ まことえがたき よるべをぞ獲ん」と続く。最初で最後の寄る辺が「己れ」であり、「自分」をしっかりと整えることでこそ道が得られると説く。他者をあれこれ言う前に、まずは自分を鍛え整えること。これに尽きる。

迷ったら、原点 に帰れ!

「会報少林寺拳法12月号」(財団法人少林寺拳法連盟発行)の中で、新井連盟会長の次の巻頭のコメントが印象に残った。

少林寺拳法は何をする団体なのか? 「人づくりによる国づくり」を目指す団体です。そして少林寺拳法の目指す人づくりとは、①自 己の可能性を信じる生き方ができる人、②主体性を持った生き方ができる人、③他人の幸せを考えて行動できる人、④正義感と勇気と慈悲心を持って行動できる 人、⑤連帯し、協力し合う生き方ができる人をつくること、と考えています。

総論はそのとおりでも、スポーツ少年団、中学校、高校、大学、実業団と、年齢別にその指導法は異なると思われます。それぞれの年齢にとって、どのような目 標設定をしていけばいいのか……。(中略)指導者の皆さんにも自分なりのビジョンを持って、そして根気よく、指導に臨んでもらえれば……。迷ったら、原点 に帰れ!

武専のレポート

本日武専のレポートを正味3時間ほどで仕上げた。半年前から課題内容も期日も分かっているのに、最後ぎりぎりまでやらずに、慌てて速達で送ることになった。文章の推敲もしていないし、思いついたまま綴っただけのブログの域を出ていない駄文である。

〈 少林寺拳法を教育に生かす 〉

はじめに
今年度、勤務校を異動となり、少林寺拳法部の顧問を務めるようになった。また教員生活も十年を越え、授業や担任だけでなく、新しい手法での授業や学校全体の教育課程などにも視野を広げ、それを生徒だけでなく、教員にも伝えていかなくてはならない世代となった。一九七八年の少年部指導研究会での法話の中で、開祖は次のように述べている。

 私が今日ここまで来たのは「少林寺拳法で得たものは少林寺拳法へ返そう。」だからみんなも損せいとは言えんが、少なくとも道楽(人を育てる道で楽しむと書いて道楽)としてやってもらえばありがたいな。道楽というのはもともと金もかかるし、暇もいるし、えらい目もする。でも楽しい。そういうものでやってもらえるかどうかで違うな。

開祖は半ば自分が楽しみながら、半ば他人を育てることが少林寺拳法の極意だと説く。この論で、少林寺拳法の教えと、高校教育との共通点を探ることで、技術だけでなく、少林寺拳法の教えを学校教育の現場に活かす方法を探ってみたい。

第一節 修行目的の確立
少林寺拳法は本来が人間完成の道であるので、その修行は保健体育、精神修養、護身練胆の三徳を目的として編纂されている。具体的には、心を修め、技を練り、身を養って、円満なる人格と、不屈の勇気と金剛の肉体を得ることである。そしてその階梯として、修行の順序、基本を学ぶこと、理法を知ること、数をかけること、修行を片寄せぬこと、体力に応じて行うこと、永続して行うことなどが心得として掲げられている。
文部科学省は二年後より完全実施の学習指導要領の実施に向けて、「生きる力の育成」「知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成」そして、「豊かな心や健やかな体を育成すること」を掲げている。
小中高校における授業の目的は専門性を極めることではない。学校の授業内容は学校へ来たり、家庭で机に向かって本を読んだりするきっかけでしかないと私は考えている。学校の授業は、学ぶ内容以上に、学びに対する興味関心、学ぶための心身の訓練、そして、学ぶ姿勢を身につけることである。学校教育法第五十一条には、高校の目的として、「豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと」「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと」とある。この法律の言わんとするところは、数学の難しいグラフや英語や古文の文法、世界史の年号を覚えることが教育の目的なのではなく、あくまで「国家及び社会の形成者として必要な資質」であったり、「社会の発展に寄与する態度を養う」人間になるための手段として学びに対する興味関心、姿勢や習慣を作ることが肝要であるということだ。
以上、文科省の教育政策を概観してきたが、少林寺拳法の「技術」を学校の授業で培う「学力」と置き換えれば、少林寺拳法はまさに、教育そのものであることが分かる。少林寺拳法は活人拳であり、「生きる力」の育成そのものであり、またその究極の目的は、まさに高校教育の目的である理想郷建設にむけた人づくりにある。少林寺拳法では、技の上達を人格の向上につなげ、そして本当の強さを持った自分を作ることで、自分の幸せと同時に他人の幸せを考えられる人間になる、そしてそうした人間を作ること、その再生産システムを明確に定義づけしている。一九七六年の第一次指導者講習会での法話の中で、開祖は次のように述べている。

 少林寺拳法という一つの技術はエサであって、本当は我々の生き方考え方を教える場である。あるいは学ぶ場である。人生の幸せというもの、宗教も芸術もすべてのものが人類の幸せに通じるとするならば、幸せとは何なのかということを私は人間関係の中に見出したわけですから、独りよがりの芸術家みたいな心境とも違うし、誤魔化しの新興宗教のようなものでもない。お互いが自分の尊厳と存在を認めて、お互いが助け合うことによって、人間同士の生きている社会で幸せというものをつくり得るんだという、そういう本当の姿をわからせる場にもう変わってもいいじゃなかろうかと思います。

開祖の言うように、少林寺拳法も学校教育も専門家を育成することが主眼ではない。技術や学力は手段・方法であって目的ではない。少林寺拳法は確かに護身の技術として魅力的ではある。しかし、指導者の私たち自身がその魅力に騙されることなく、人間感性の道だということを強く意識しなければならない。また一教員として、学力の向上に腐心するだけでなく、教育の目的に立ち返って日々実践を重ねていくことが求められる。

第二節 拳の三訓
最近の高校生は、学力や進学、部活動での大会の結果ばかりに注目がいき、肝心の「学ぶ姿勢を正す」という習慣が疎かにする傾向が顕著に見られる。技術や授業を学ぶ上で、挨拶や、服装に始まり、言葉遣いや話の聞き方、清掃といった「学ぶ」姿勢が前提である。しかし、近年教育界全体で、内容を合理的に理解することのみが重視され、教員の側も授業だけ学力だけつけておけばよいという発想に流されがちである。学ぶ内容にだけフォーカスが当てられ、パソコンやプレゼンテーションソフトを活用した授業、ゲーム的手法を取り入れた授業などに注目が集まり、肝心の子どもたちの服装や座り方、立ち方、言葉遣いなどが二の次にされている。一九六九年の整法講習会での法話の中で開祖は次のように述べている。

 おれはなんぼか払ろうて習ろうたんだから、権利だ、義務だと言うたら、こんな水臭いものはないね。こんな嫌味なものはない。人間というものは心の働きが大切である。そこに今の、現代教育のひとつの私は欠陥があるように思う。権利、義務ではない。感謝と奉仕の世界、これが宗教や道徳、要するに人間の社会なのである。権利、義務だけではないということを覚えてくれ。

また、教範で、開祖は「道を学ぶ者の姿勢」として次のように述べる。

 「技芸」にはすべて「格」と云うものがある。道を学ぶものは、先ず正しく師の教えに従い、師の形を学び、その形の「格」に至ることを目標にして、我流に堕することを戒めなければならない。

合理的な教え方や、生徒の個性に振り回されて、指導者の「形」を学ぶということが形骸化している現状に対する厳しい警告である。技術や授業のみを教えるだけで済まそうとするのではなく、指導者自身が生徒の人間完成の目標像とならなくてはいけない。そしてまず指導者自身が「脚下照顧」し、自分自身の学びの姿勢、教える姿勢を正し、生徒がそれを「格」として学んでいくという教育から私たちは外れてはならない。

おわりに
私たち教員は、効率的な教え方、学び方というものについ目が向きがちである。しかし、教範や法話を学ぶ中で、そうした効率性や合理性を追求していくことで、こぼれ落ちていく当初の目的や学びの「姿勢」が見えてきた。少林寺拳法の教えを生かし、生徒への指導、そして後輩教員への指導にあたっていきたい。

参考文献
宗道臣『少林寺拳法教範』(総本山少林寺 1979)
文部科学省『高等学校学習指導要領解説』