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東京新聞社説

昨年来の懸念であった現場実習が昨日でやっと終了した。いろいろと反省の多い実習であったが、何事もなく無事に終えることができた。自分が勉強したかったことに思う存分取り組むことができる時間がとれるのは、苦労も多いが幸せなことである。家族と職場の人たちに感謝したい。

本日の東京新聞の 社説は全国紙にしては気持ち良いくらい歯切れがよい。小泉総理の靖国参拝を巡る変節とそのおそまつなロジックに痛烈な批判を加えている。全文転載してみたい。

小泉氏と靖国 その居直りがいけないこれが国の最高責任者の発すべき言葉だろうか。「靖国参拝自体がいけないのか、中国、韓国がいけないからいけないのか、はっきりしてほしい」と、小泉首相は言った。その居直りがいけない。外遊先のイスタンブールでも首相は靖国にご執心だったようだ。年頭会見と同じ発言を繰り返した。おれの勝手だ、余計な口を挟むな、と言わんばかりに。まるで批判されるのを楽しむように。

物事を単純化して異論を退けるような、発展性のない議論につきあうつもりはさらさらないが、理解に苦しむ点はただしておきたい。首相は自民党総裁選の争点に関して「靖国の問題を自分から提起したことはない。参拝しろとか、してはいかんとか、誰にも言うつもりはない」と述べている。二〇〇一年総裁選で八月十五日参拝を公約して、党の有力支持団体、日本遺族会の票獲得に動いたのは誰だったか。小泉氏である。それでいて、ポスト小泉の総裁選は靖国を争点にするな、と言うのなら、そんな身勝手はない。

盟友であった山崎拓氏が「外交問題でないと強弁しても、内政問題であり、争点になる」と言っている。その通りだ。次の総裁は小泉スタイルを継ぐのかどうか、党員も、国民だって、知っておきたいだろう。そもそも、靖国参拝をわざわざ目立たせて、外交問題に発展させたのは首相自身だ。いまさら「精神の自由、心の問題だ」と自分の殻に閉じこもるのでは、無責任だろう。参拝自体がいけないのか、外国が駄目だと言うからいけないのか、と居直ってみせる首相に、日米・日中戦争、その責任の所在をめぐっての思慮分別は感じられない。極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判と、そこで断罪されたA級戦犯の評価を抜きにして、靖国は語れないのに。次期総裁候補の一人、安倍晋三氏も小泉氏と同類らしい。先日こう言った。「先の戦争をどう評価するかを政治家が言うと、外交的、政治的意味を持ち、あまり賢明ではない。それは歴史家に任せたい」。意味が分からない。歴史認識を語れぬ総理総裁候補など、候補たりえない。

連立与党にあって控えめな公明党の神崎武法代表が、さすがに次の首相の参拝自粛を求めている。(1)歴代首相は侵略戦争を深く反省する談話を出している(2)靖国神社はA級戦犯が合祀(ごうし)され、かつての戦争を称賛している(3)そこに首相が行くのは内閣の方針と矛盾する−というものだ。また口先だけかと軽んじられないよう、神崎氏にはお願いしておく。(2006年1月13日付け東京新聞)

箱庭療法研修

本日社事大の現場実習先で、箱庭療法の研修に参加した。
箱庭療法とはユング派セラピストのカルフがローウェンフェルトの世界技法をもとにして考案した心理療法で、砂の入った箱庭に人形や動物、昆虫や乗り物、建物、立ち木、怪獣などのミニチュアを自由に並べることで、心理分析ができるという冗談みたいな療法である。河合隼雄が1965年に紹介し、日本の心理療法の有力な技法の1つともなっている。

10人グループの最後に一巡目が回ってきた私は、前の人が人形やら家やら橋を並べているのを無性に吹き飛ばしてしまいたいという衝動に駆られ、キングギドラを箱の枠の上に置いた。二巡目、三巡目は時計を見ている人形と楽器を演奏している人形を、何もない空間に置くのは不安だったため、それぞれ大きな家の近くに置いた。その過程においては、他人のミニチュアには全く気を留めていない。

箱庭療法の読解にあたっては、作品全体をまとまりとして捉え、流れを重んじ、テーマとドラマ性を読み取ることが大切である。この解釈法に拠って自己分析するに、私にはどうやら物事を高所から見下ろす傾向があるようだ。また、他者の活動から一歩引きつつも他人の行動を十把一からげに捉える性向の持ち主である。しかも、周囲の行動に良くも悪くも影響されず、我が道を行く人物のようだ。また、常に何かしらの活動していたいという貧乏根性の持ち主である。孤独を好む性格というと必ずしもそうではなく、常に家(拠り所)の周囲から離れず、いつでも元の位置に戻れる距離を取ってしまう不安感を抱えながら日々生活を送っている。はたしてどうだろうか。

hakoniwa

〈法学〉

社事大のレポートで、非嫡出子の相続分が嫡出子の2分の1とされている民法900条4号但書前段について色々と調べてみた。わずか1行の法文であるが、その合憲性を巡って、当事者のみならず、引いては日本人全体の家族観が問われる興味深い事例である。

95年7月の最高裁において、民法900条4号の但書前段の合憲性に対する判決が下された。多数意見は「現行民法は法律婚主義を採用しているのであるから、本件規定の立法理由にも合理的な根拠がある」として合憲とした。但し、15人の裁判官中、5人が反対意見を述べ、賛成意見中4人の裁判官が立法による解決が望ましいとする補足意見を述べ、裁判官の間でも意見は分かれた。

2003年3月28日の最高裁でもこの件が争われ、5人の裁判官のうち、3名が合憲、2名が違憲の反対意見であった。違憲判断を述べた梶谷・滝井両裁判官は「今日国際化が進み、価値観が多様化して家族の生活の態様も一様でなく、それに応じて両親と子供との関係も様々な変容を受けている状況の下においては、親が婚姻という外形を採ったかどうかというその子自らの力によって決することのできない事情によってその相続分に差異を設けることに格別の合理性を見いだすことは一段と困難となっているのである」とした。更に同年2回の最高裁判決で争われたが、いずれも違憲立法審査権の示唆や反対意見を付記しつつも合憲の判決を下している。

翌2004年10月の最高裁でもこの件が争われ、5人の裁判官の内、2名が反対意見を述べた。反対意見を展開した才口裁判官は次のように述べる。「憲法13条、14条1項は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない旨を規定している。このような憲法の規定に照らすと、憲法は、相続に関する法制度としては、子である以上、男女長幼の別なく、均等に財産を相続することを要求しているものというべきであり、子の社会的身分等を理由として、その法的扱いに区別を設けることは、十分な合理的根拠が存しない限り許されないと解するのが相当である。非嫡出子であることは、自分の意思ではどうにもならない出生により取得する社会的身分である。嫡出子と非嫡出子とを区別し、非嫡出子であることを理由にその相続分を嫡出子のそれの2分の1とすることは、その立法目的が、法律婚の尊重、保護という、それ自体正当なものであるとしても、その目的を実現するための手段として、上記の区別を設けること及び上記数値による区別の大きさについては、十分な合理的根拠が存するものとはいい難い。」

私も才口裁判官の見解に賛成である。94年に日本も批准した子どもの権利条約では子どもの社会的出身や出生によるあらゆる種類の差別を禁止しており、この条約に抵触する民法900条4号但書の早急な改正が求められる。現民法の規定は一夫一婦制の法律婚主義を保護し、子どものは親の専有物であるかのような古い家族観を前提としている。梶谷・滝井裁判官が指摘するシングルマザーや事実婚などの新しい家族像を社会が受け入れるにあたり、子どもは地域や国民全体のものだとする新しい子供観を共有することが求められる。

参考文献
1995年7月5日最高裁判決 判例タイムズ885号83頁
2003年3月28日最高裁判決 判例時報1820号62頁
2004年10月14日最高裁判決 判例時報1884号40頁 法学教室2004年12月291号136頁
東京弁護士会意見書「非嫡出子の相続分差別撤廃に関する意見書―民法900条4号但書改正案―」1991年3月7日

小学校認定試験合格通知

先日受けた小学校認定試験の合格通知が速達で送られてきた。通信で勉強すれば30万近い学費と2週間の教育実習が必要となるのだが、一発試験だと、たった5600円の受験料と3日間の試験で小学校2種免許が取得出来てしまう。おそらく今後使うことはないと思うが、ピアノの勉強も含め良い経験であった。

小学校教員認定2次試験

昨日、小学校教員認定2次試験を学芸大学に受けに行ってきた。
朝9時から夜8時近くまで拘束され、一日がかりの試験となった。懸念だったピアノの試験だが、音楽家然とした3人の年配の試験官を前に、下手くそな「ふるさと」を演奏してきた。評価うんぬん以前に、私の稚拙な演奏と音程の外れた歌を聞かせるなど何か非礼な行為をしているのではないかという思いに囚われた。課題曲は何度も練習したのだが、一ヶ所弾き間違えてしまった。一緒に同室した他の3人の女性受験生との歴然としたレベルの違いを実感した。また体育の表現は「身近な自然や日常生活の中から題材を見つけ激しい動きを付けて表現しなさい」というテーマであった。私は「壊れていくおもちゃ」というテーマでテキトーにアドリブで踊ってきた。国語の論述が大学生時分の試験さながらのごまかしのきくありきたりな問題だったので、何とかいけるのではないかという淡い期待を持っている。