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対談 澤地久枝さん×松本哉さん

本日の東京新聞朝刊に2面に渡って、作家澤地久枝さんと東京・高円寺でリサイクルショップ店を経営しながらデモをしてきた松本哉(はじめ)さんの2人の日本再生の道筋についての対談が掲載されていた。

自身の戦争責任を踏まえて「九条の会」を呼びかけ、脱原発運動に関わる澤地さんと、1990年代の就職氷河期以降の非正規雇用の増加やネットの普及による本音の触れ合いの場の減少に悩む若者の声を上げる松本さんの二人が、経験こそ違え、閉塞した社会システムや「撤退」の二文字のない政治に対して、一致して個人の生活感を基盤とした素人デモに希望を託している。

旧満州で終戦を迎え、国家から置き去りにされた棄民体験を持つ澤地さんに対して、松本さんは次のように語る。

大学に入ったのは1994年。経済団体が正規雇用を減らし、非正規労働を増やすと言い始めていたころで、就職氷河期です。入社試験を百社受けても、一社もひっかからない人がざらにいました。
大学側も「大学を企業に役立つ人材づくりの場に変える」と言いだした。学生も就職のための点数稼ぎのように、つまらない授業でも真面目に出る。僕は下町育ちでやんちゃでしたから、就職予備校みたいなのは息が詰まって。
幸い、法政大は個性的な人がまだ大勢いて学生運動もあった。自由さが残っていたから、僕も何かやろうと、キャンパスに鍋やこたつを持ち込んで、ばかばかしいノリの大宴会をやったんです。料理やお酒も用意して、学生や先生に「飲んでいきましょう」って声をかけて。めちゃくちゃな人が集まって楽しかったです。
「キャンバスに自由を」とか「大学改革は間違っている」とか、ただ言っているよりも、自由な空間を実際に味わう方が断然説得力があると思いました。

また、原発デモについても、次のように語る。

日本のこれまでのデモは、組合のおじさんが旗を持ってスローガンを叫ぶ、というイメージだったと思いますが、今は、自分の理想とか、生き方とかをデモの中で表現しているんです。
トラックの上でバンド演奏したり、パフォーマンスをしたり。原発反対のゼッケンをつけて黙々と歩く人もいます。怒りたい人は怒って、表現したい人は表現して。そういう自由さが世の中を変える力になる気がするんです。

澤地さんが撤退や熟慮することをせず「大勝」「成長」と突き進み、最後は誰も責任を取ろうとしない政治や社会の「無責任体系」に疑義を呈したところ、それに対して、松本さんは次のように語っている。

これまでの日本には、予定調和の塊みたいなものがあったと思うんです。「この空気を乱していはいけない」という。戦争の時もそうだったんでしょうけど、我慢に我慢を重ねて、みんなひどいことになったんじゃないですか。
かつては、頑張れば経済成長もあったかもしれないけど、それは、自転車操業というか、止まったら倒れるようなやり方だった。金を稼いで消費することが豊かさだとか、相当な競争に勝った人だけが豊かになれるとか。そんな価値観や発想から離れて、これからはもっと自由に生きる方がいい。

そんな松本さんに対して、澤地さんは次のように述べる。

小田さんは60年代に「ベトナムに平和を! 市民連合」という市民運動を起こし、「一人でもやる、一人でもやめる」と言っていました。個人が自分の思いをまとめて行動すること。それが世の中を変えていくと。原発事故を経験した今の日本人に訴えかけてくるようです。松本さんの自由な発想とか行動って、少し、小田さんに似ているような気がします。

最後に松本さんは次のように語っている。

脱原発に揺れている人は大勢います。原発は危ないと心配しながらも、脱原発の生活が見えないから、原発の推進側に取り込まれてしまう。だからこそ、僕らは安心して子どもを育てられて、老後も不安のない、持続可能な生き方をやる。そんな生き方が世の中で大きく見えてきたら、揺れてる人も脱原発に傾いてくるんじゃないですか。有象無象がガチャガチャと、何回でもデモをやんなくちゃいけない。そういう時代です。

社会的隔離

本日の東京新聞の「こちら特報部」は福島県教組が作成した放射能を考える指導本についての記事と、発達障害被告に求刑を超す判決が言い渡された問題の背景に関する考察の記事であった。

発達障害の方は、約30年間引きこもり生活を送っていた42歳の男が姉を包丁で刺殺した事件で、大阪地裁は求刑16年を4年も上回る懲役16年を言い渡した。被告が逮捕後の検察の精神鑑定でアスペルガー症候群と診断され、「母親らが同居を断っており、被告の障害に対応できる社会の受け皿がなく、再犯のおそれがあり、許される限り長い期間刑務所で内省を深めさせることが社会秩序のためになる」という理由のためである。

この判決について、精神障害者の当事者団体「全国『精神病』者集団」の山本真理さんは「犯罪行為そのものを罰するのが刑法のはず。障害者だから罪を重くするのは、障害自体を罪として罰しているのと同じ。明らかな差別だ」と話す。また、母親らが被告を受け取らない以上、社会に受け皿がないから刑務所へという判断についても「社会の支援不足を障害者個人や家族の責任に転嫁することは、本末転倒だ」と批判している。

さらに、龍谷大法科大学院の浜井浩一教授は「発達障害そのものが重大犯罪の原因ではない。犯罪の多くは突発的。発達障害を理解してもらえないことから生じる『二次障害』が、強い被害念慮(確信はないが、被害を受けていると感じること)などを生み、それが発達障害特有のこだわりと結びついて起こされる。適切な対応によって二次障害をケアすることで、重大な結果を妨げる」と話す。また、「日本の刑事司法は更正や社会復帰を全く考えていない。家族や病院、福祉施設にも見放された時、断らないのは刑務所だけ。困ったときは刑務所へとなる」と批判している。

「発達障害」や「精神障害」についての正しい知識と理解がまずは社会の広い層で求められる。「怖い」「気味が悪い」といった未熟な感情レベルではどうしようもない。「学校の理解がない→卒業後の進路指導がない→働く場や学ぶ場がない→家に引きこもるしかない→家族に押しつけるしかない→全ては本人の自己責任」という負の連鎖が日本社会に根強く蔓延っている気がする。まずは学校現場での理解が先決であろう。

あとがきの「デスクメモ」が印象に残った。東京新聞ならではの慧眼な姿勢が垣間見える文章である。

脱原発の合間に水俣病や障害者差別の問題を取り上げる。ただ、個人的には問題の根は同じに映る。つまり差別だ。脱原発デモの高揚はすばらしい。しかし、ともすれば市民主義とか民主主義といった美辞の間に差別は隠される。泣く人はいつも少数者だからだ。障害者も、福島も孤立させてはならない。

野球職人の移籍に思う。

本日の東京新聞朝刊の特集に「野球職人38歳の決断」と題した記事が掲載されていた。昨日11年半在籍した米大リーグマリナーズからヤンキースに移籍を発表したイチローを応援する内容であった。
並べるのさえも不遜であるが、イチローは私と同じ1973年生まれ。いくらスーパーヒーローな彼とて、プロスポーツの世界の中で体力の低下を日々実感せざるを得ないはずである。そうしたギリギリの世界を楽しみながら活躍を続ける姿を、同世代として半ば自分を励ましながら、心から応援していきたいと思う。
記事の中で、企業人事に詳しいジャーナリスト吉田典史氏は、「38歳」という年齢に注目し、次のように語っている。頷くところが多い。

サラリーマンが自己を見つめ直し、大きな決断を下せる最後の年齢。管理職になれるのか、役員を目指すのか、転職か、起業か…。自分自身の強さ、弱さを洗い出し、自己分析をするラストチャンスでもある。
イチロー選手は、体調を厳しく管理し「どうしたら生き残れるか」を自己分析してきた。今回の決断もその延長だろう。40代以降を輝かせていくためにも38歳という時期は大切で、自己管理の在り方は参考になる。

最後に特集をまとめた記者は次のようにまとめる。
30代後半を「仕事の充実と生活の落ち着き、そして体力の低下」と評しているが、なるほどと思う。

不惑の40歳を前にした30代後半。入社以来、ひたすら下働きをし、仕事も充実して落ち着き始めながら体力が落ちだす時期だ。サラリーマン人生なら折り返し点でもある。一方、まだ十分にやれる中での心機一転だ。われわれにもまだまだ勇気を与えてほしい。イチロー劇場の第3幕にワクワクする。

本日の東京新聞から

本日の東京新聞朝刊の社説は「オスプレイ搬入」と「原発事故報告」の二つが並べられていた。「オスプレイ〜」の方は、米国の安全性の主張を鵜呑みにし、米国側の格好だけの検証や結果ありきの運用計画に何も言えない日本政府のふがいなさを述べている。「原発事故〜」の方は、昨日発表された政府事故調査・検証委員会の報告を踏まえ、国会事故調査委員会、民間事故独立検証委員会、東京電力事故調査委員会の4つの事故調査のどれもが「人災」の

本日の東京新聞朝刊より〜オスプレイ


米軍のオスプレイを載せ、関門海峡を航行する民間輸送船「グリーンリッジ」=22日午後7時35分、山口県下関市沖で共同通信社ヘリから

本日の東京新聞朝刊に、「オスプレイどう着地」と題した課題検証の記事が掲載されていた。
米軍垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの日本到着が今月23日に迫っているのだが、危険性に対する懸念は拭えないまま、山口県岩国市の岩国基地と沖縄県宜野湾市の普天間飛行場の地元への押しつけが強行されている。しかし、肝心の日本政府は日米安全保障条約で事前協議の対象となる「装備の重要な変更」に該当せず、政治が介入できる問題ではないという姿勢を貫いている。一方オスプレイ開発には4千社が関与しているとされ、同盟国から「不良品」のレッテルを貼られては、今後の調達計画、ひいては国防戦略が狂うことは避けたいという米政府の本音もあるようだ。

しかし、ど素人が見ても、アニメ『超時空要塞マクロス』の「バルキリー」みたいに、ヘリコプター型の「垂直離着陸モード」から、「固定翼モード」へ「変身」するのは構造上無理があると言わざるを得ない。実際、「バルキリー」だって、「戦闘機」から「ロボット」の変身はスムーズではなく、せっかく作ったプラモデルが一度の変身で粉々になってしまった記憶がある(笑)。

では、そもそもオスプレイが日本に配備される必然性があるのだろうか。オスプレイは米海兵隊の主力兵員輸送機であり、ヘリコプターに比べ航続距離は5倍以上ある。空中輸送すれば朝鮮半島や中国まで航続可能という代物である。玄葉外相は「沖縄・南西諸島の防衛も含めて、安全保障面で抑止力が高まる」と述べているが、ある政務三役は「日本はまるで米国防総省の出先機関だ」とぼやいているという。

日本のマスコミは北朝鮮の異質性や中国の横暴をやたらに書き立てるが、米国やイスラエルを中心とした軍産複合体の拡大路線に対する批判は滅法弱い。正しくは中国や北朝鮮との正式な外交ルートや民間の草の根ネットワークを強化し、日本に対して牽制的な行動ができないような外交政策が大前提なのである。米軍の威力を背景にした日米安保を前提とした外交は敵を生むだけである。北アジアにおける共同防衛、相互監視、経済協調を柱とした枠組み作りが求められる。と同時に、それは先の侵略戦争に対する日本の独善的な歴史認識を改め、日中、日韓を含めた特に19世紀以降の北アジアの史実・史料に忠実に基づいた共同の歴史認識の醸成が欠かせない。

オスプレイはこと軍用機の安全性という問題だけでなく、それを受け入れる日本政府や防衛省の動き、そしてそれを拒否するための日本の政治や外交、歴史といった哲学が問われているのではないか。