高橋和巳『暗黒への出発』(徳間書店 1971)をパラパラと読む。
亡くなる直前の1970年暮れ行われた3つの講演録に、新聞や雑誌に掲載された著者自らの文学と思想の表白がまとめられている。文学に始まり公害、政治、大学など、様々なテーマで語るのだが、特に1960年代後半に盛り上がった学生運動の1970年代的意味を問い直そうという著者の思いが伝わってくる。
著者はそうした1970年代に入った自身の立ち位置について次のように述べる。
ラディカルという言葉には二つの意味があって、急進的、本質的という二つの意味を持っているのは、たいへん意味のあることなのです。68、9年の非常に急進的な表面に現われた行動が、ちょっと行動しにくくなったということがありますが、ラディカルという言葉がもっていたもうひとつの、つまり本質的な−掘って掘って掘りまくって、あらゆることを懐疑してゆく、従来の政治思想、従来の哲学、従来の美学、そういうもののいっさいを、もう一度問い直してゆくべき時代であり、それを掘り下げることができるか否かが、私たちの存在に意義があるか否かが、問われる場だろうと思います。あらゆる観念群のそれぞれが、根本的に問い直されるものであり、それによって、もっとも本質的な懐疑の時代がはじまるだろうし、その懐疑に耐えなければならないと思います。
解体とは、これまでにもっていた幻想−大学の自治とか学問の自由とか−だけに限られず、私たちが依拠していた、いろいろな基本的なものと思われていた価値も幻想かも知れない、ということを疑い続ける、そしてその疑いを経過することによって、自分自身の立つ瀬がなくなるかも知れないけれども、それをあえてやる、という意味での解体です。そういう作業の一端を分担してやることになるだろうと思うわけです。たまたま私は病気をしてしまいましたが、人間というのは、なにかある一定の職場について一定の仕事をしていると、その仕事や自分の生命が永遠に続くように錯覚しがちですが−存在の不安定と同時に生命の大切さというものが、なにかの破綻によって逆に実感させられるのですが、そういう実感を生かしながら、ニーチェの言葉を借りれば、「積極的ニヒリズム」とでもいうか、そういう意味での解体作業を、文学あるいはエッセイの領域でやっていきたい。行動面でも、自分にとって切実と思われる部分については、問題主義的にかかわっていきたい。つまり、ある党派に加担するのではなく、それについて人びとが結集するところの問題別闘争委員会のようなものができるなら、一員として参加し、あるいは呼びかけることもありうる、というふうに思っています。
それにしても、上記の文章を高橋氏は39歳で書いているのである。自分自身の馬齢と比べては滅入ってしまう。
本の背表紙に「寅書房」なる古本屋のラベルが貼ってあった。電話番号もまだ東京03の後に3とか5の数字がつく前のものである。学生時代に何回か立ち寄り、社会評論社が出している雑誌を何冊か購入した記憶がある。確か近隣の古本屋も党派別になっていたと記憶しているが。