『明日の記憶』

萩原浩『明日の記憶』(光文社 2004)を読む。
若年性アルツハイマーに罹った中年男性の一人称の語り口で物語が進んでいく。
徐徐に記憶が抜け落ちていく不安と、そうした自分を支えてくれる家族や同僚の愛情がリアルに伝わってきた。
記憶が抜け始め、会社を辞めてから、妻との初々しい馴れ初めや、学生時代の陶芸の思い出、娘の小さい頃の笑顔などの幻覚が次々に主人公を襲う。
しかし、そうした記憶の恐怖が自然の土に触れるという体験を通して、家族への愛情へと劇的に変わっていくラストシーンには、久方ぶりに涙腺が緩んでしまった。
『アルジャーノンに花束を』に内容や描写が少し似ていたが、ハッピーエンドで終わる『明日の〜』の方が作品としては良い。

アルツハイマーが進行し、日常の仕事のミスが頻発する中で、主人公は次のように語る。

記憶がいかに大切なものか、それを失いつつある私には痛切にわかる。記憶は自分だけのものじゃない。人と分ち合ったり、確かめ合ったりするものであり、生きていく上での大切な約束ごとでもある。(中略)たった一つの記憶の欠落が、社会生活や人間関係をそこなわせてしまうことがあるのだ。

しかし、学生時代に何度も通った登り窯での一夜が空けて次のように語る。

(娘の顔すら思い出せなくなり)私と違う苗字の下に書かれた娘の名前をぼんやり見つめていた記憶はあるのだが、その名前もなかなか頭に浮かんでこなかった。時間が止まったようなこの山の中にいるせいだろう。きっと記憶を下界に置いてきてしまったのだ。戻れば思い出せる。なんの根拠もなく私はそう考えていた。不思議なことに、いまは記憶を失う恐怖心は薄かった。記憶が消えても、私が過ごしてきた日々が消えるわけじゃない。私が失った記憶は、私と同じ日々を過ごしてきた人たちの中に残っている。

話は変わるが、昨日、大学の試験日を間違えて、浦和の会場まで行ってから引き返すというぽかをしでかした。単なる確認ミスだったのだが、十分に「おっさん」の年齢に達している自分にとって、「若年性アルツハイマー」の話題は決して他人事で片付けられるものではない。文章の呂律も廻っていないし。。。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください