内田康夫『日光殺人事件』を読んだ。
おなじみの私立探偵浅見光彦が活躍するシリーズであるが、ここまで定番になると「水戸黄門」との類似を指摘せざるを得ない。徳川幕府をバックに悪者を退治する水戸光圀と、刑事局長の兄を持つ浅見光彦が難事件を解決する姿は多くの点で重なる。また主人公が権力の中枢ではなく、単なるじじい、またルポライターを装いながらも絶大なる権力の力を秘め隠す日本人が好みそうな振る舞いも共通する。浅見光彦にいたっては、警察に批判的な言動を振りまきながらも、警察権力の持つ力を印籠のごとく最大限活用している。悪く言えば、彼らの活躍が支持されることで「良心的」な保守層が形成されていく危険性すら感じる。ちょうど今話題になっている自民党の加藤元幹事長を讚えるようなタイプだ。悪しき権力内批判層の形成にこれらの作品群が大きな影響力を持つ危なさをひしひしと感じている。
上記のような草の根右派言説に批判的な視座を設けなくてはならない点については、11月18日付けの『図書新聞 2510号』の太田昌国のインタビュー記事「日本ナショナリズムを解体する」を読みながら考えたことだ。この記事の中で太田氏は「左翼的・進歩主義的な思想と運動の後退局面を捉えて、非常に居丈高な、それ見たことかと揶揄するような右派言論が台頭してきた。ソ連の崩壊を見届けた後のことです。(中略)たしかに、戦後左翼的・進歩派の、いままで当たり前のように僕らが読み過ごしてきた言論のなかに、明らかに現在の右翼ナショナリズムの跋扈と通底する、同じ理論装置や歴史観が孕まれていた」と述べている。小林よしのりや西部らは当初は「戦後民主主義」なるものを攻撃していた点を我々は想起しなくてはならないだろう。