本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」に、「プロレタリア文学と現代」という題の文章が載っていた。
ちょっと古いなあと思ったが、プロレタリア文学を卒業論文に取り上げた私は「プロレタリア」や「セメント」「プロパガンダ」といったカタカナ用語に目が行ってしまう。筆者が指摘しているように、「共産党文学」という「大看板」を背負った作品よりも、「庶民の生活実感」を描く「何気ない」プロレタリア文学の評価が求められているのであろう。
「飢えた子どもたちを前にして文学は何ができるのか」。サルトルの有名な言葉だ。カミュとマルクス主義をめぐっての論争も、いまや昔日の感がある。芸術は革命のためのプロパガンダという社会主義リアリズムの主張は、どう見ても過去の遺産だろう。
ふりかえると、日本では1920年代から30年代に前半にかけて、労働者の過酷な現状を活写するプロレタリア文学が登場した。小林多喜二「蟹工船」、徳永直「太陽のない街」、葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」などが代表格。東西冷戦終結後の90年代を境にプロ文は消滅したといわれたが、5年前には「蟹工船」ブームも起きている。
最近、森話社から全7冊の予定で「アンソロジー・プロレタリア文学」の刊行が始まった。『①貧困−飢える人びと』には多喜二や宮本百合子などの13人の作品が並び、有名ではない作品も多く興味深い。いまなぜ「プロレタリア文学」なのか。社会主義の宣伝手段や善悪二元論ではなく、働く者の汗や涙の真実に迫り、人の心の奥底や内面を見つめる文学の誕生を望みたい。格差社会、ブラック企業、非正規雇用、原発事故処理現場の実情など、新しいプロレタリア文学がたくさん出てしかるべき時代だと思う。(反抗的人間)