本日の東京新聞朝刊に京都大学が京都市の景観条例に従って、学生側に名物ともなっている「立て看板(タテカン)」の撤去を通告し、一部の学生側ともみ合いになったとの記事が掲載されていた。
「安全」や「景観」といった反対しにくいロジックを盾にキレイな環境を目指す大学当局と、表現の自由や政治活動の自由を訴える学生側の対立構造となっている。
大阪府立大学の酒井隆史教授(社会思想)は、京大のタテカン問題について次のように指摘する。
1980年代まで残っていた大学の自治という感覚が、90年代から2000年代前半にかけてどんどん大学当局による管理強化の影響を受けてなくなっていった。
(タテカンやビラ配りは)東京大、早稲田大、法政大などかつては学生運動が盛んだったところでもほとんど消えていった。
上智大学の中野晃一教授(比較政治)は、政治の右傾化と大学管理が一体化されていると指摘する。
改憲のスケジュールを本格的に進めるときに、邪魔になるのは報道機関や大学教授、学生から上がる反対の議論だろう。
政権にとっての雑音を抑え込む上で表面化した、統制の一場面かもしれない。
一方、酒井教授はさらに深読みし、「条例を守れ」という市の姿勢と「憲法を守れ」という護憲派の姿勢がルールの一律化という点で類似していると述べる。ルールの適用の厳格化だけを推し進めようとすると、それに反対する人たちが邪魔なだけの存在と感じてしまう。酒井氏は多様な見解がぶつかり合う場の保証こそが大学の存在価値だと述べる。
さまざまな実力行使や話し合いも含めて、構成員がぶつかり合いながらルールを形成する。かつて大学がその可能性を提供していたデモクラシーの感覚が、希薄だ。安倍首相が退陣しても、この管理強化の根を断たないことには、表現の自由を含めたさまざまな価値は守れないだろう