月別アーカイブ: 2018年4月

『鈍感力』

渡辺淳一『鈍感力』(集英社 2007)を読む。
肉体的にも精神的にも鈍感であることが、ストレスフルな社会で生き抜く力であると説く。

(卓越した才能がありながらも、線が細く成功しなかった作家の友人を例に上げて)
人間が成功するかしないかは、必ずしも才能だけではないということです。いいかえると、才能どおりに成功する訳ではない、といってもいいでしょう。
こう書くと、才能より運、不運とか、タイミングなのかと思う人もいるかもしれません。しかし、文壇のような世界は、あくまで個人の力と才能だけで、運、不運などが通用する世界ではありません。
そういう世界で、改めて何が必要かということになると、いい意味で鈍さです。
むろん、その前に、それなりの才能が必要ですが、それを大きくして磨いていくのは、したたかで鈍い鈍感力です。
もし、あの頃の彼に鈍感力があったら、どれほど優れた作家になっていたか、しれません。
いや彼だけではありません。その後、一度登場して消えていった作家のなかにも、したたかさや鈍さに欠けた人もいるはずです。そしてこれは文学の世界だけではなく、芸能界やスポーツの世界で、そしていろいろな社会や企業で働くサラリーマンでも同じです。
それぞれの世界で、それなりの成功をおさめた人々は、才能はもちろん、その底に、必ずいい意味での鈍感力を秘めているものです。
鈍感、それはまさしく才能であり、それを大きくしていく力でもあるのです。

『女は笑顔で殴り合う』

瀧波ユカリ・犬山紙子『女は笑顔で殴り合う:マウンティング女子の実態』(筑摩書房 2014)を半分ほど読む。
男性の間での上下関係というのは、身分や立場、肉体や学力のスペックなど勝敗がはっきりと序列化されていて分かりやすい。一方、女性同士の場合、「私の方が上だ」とか「あなたよりもモテる」というマウンティング攻撃が、同情や共感、果ては自虐という中に巧妙に包まれてしまい、著者曰く「モヤッ」とした後味悪い感覚が残ってしまう。女性同士という気心の知れた関係の中に潜むマウンティングについて、会話の一つひとつを取り上げて分析を加えている。

面白そうな本だと思い手に取ってみたのだが、途中から「どうでもいいじゃねえか」と思い始め、玩味するまでに至らなかった。

「ハイレゾ社会に ご用心」

本日の東京新聞朝刊に掲載されていた、タレントのふかわりょう氏のコラム「風向計」の文章が印象に残った。フェイクニュースの飛び交う芸能界で生きてきた著者ならではの生きるヒントとなっている。

(高音質なハイレゾ音源が登場して数年経つが、必要以上の情報量に耳疲れしてしまい、CDの登場の頃のように普及していないという流れの中で)
世の中はハイレゾ社会になっています。それは、これまで聞こえなかったものまで耳に届いてしまう社会。ネットやSNSの普及によって、一個人のつぶやきが社会全体に響くようになりました。誰がどう思っているのか、何を感じているのかが、可視化されるようになりました。これは決して悪いことではありませんが、この「聞こえすぎる世の中」にいると、必要のない情報までキャッチしてしまい、耳や、心が疲れてしまいます。
余計な音に気を取られて奪われた、鳥のさえずりや、川のせせらぎ、木々のざわめき。鈍感力や気にしない力も必要でしょう。不必要な音をカットする、ローファイな暮らし。聞こえなくてもいいことばかり聞こえてしまう、ハイレゾ社会にご用心!

『梟の城』

第42回直木賞受賞作、司馬遼太郎『梟の城』(新潮文庫 1959)を読む。
故郷の壊滅の復讐という伊賀忍者の使命を胸に、殺伐に明け暮れる男たちの熱い生き方を描く。手裏剣や撒菱、水蜘蛛などの忍者の必殺アイテムが登場したり、大スペクタルな戦闘シーンや濡れ場シーンなどもあったり、読み応えのある作品であった。
特に織田信長の次男の織田信雄による伊賀地域の2度にわたる制圧(天正伊賀の乱)や信長、秀吉、家康の3者の関係、家康と服部半蔵(同じ名前で何人もいるが)の関係など、史実に基づいたエピソードが勉強になった。