田代三良『高校生になったら:学力・体力・生活力』(岩波ジュニア新書 1979)を読む。
最近の若者、とりわけ高校生は変わった、分からなくなったととかく言われる。しかし、70年代当時都立戸山高校で教鞭を執られていた田代先生は、当時の高校生について次のように分析している。
この頃の生徒たちのなかに、成績がいったん低下するとなかなか立ち直れない傾向が強まっているように見えます。もうこの辺で立ち上がりそうなものだと思っても、ずるずるとどめどもなく崩れていってしまう不安さえ感ずることがあるのです。その原因は、この人たちの育ち方のなかにその根があるように思われます。それは、ふつう言われるようなひよわさということよりは、むしろ十分な集団的生活の体験の蓄積を欠いた、孤立的な生活意識の中で育ってきていることのほうに、より大きな原因があるように思われます。
いいかえれば、他者との交流のなかで、相互の力や技の向上を実感できる体験が多ければ多いほど、自分にもやればできるという積極的意欲が湧きやすいのですが、そうした体験が乏しければ、努力の結果としてのひとの力量が、まったく異質のもののようにかけ離れて映りやすいでしょう。
今の高校生観と大きく変わることはない、というか、そのままどんぴしゃりと当てはまる。いつの時代も高校生は不安定でエネルギッシュな存在なのである。現在の高校生が30年近く前の高校生と大差ないことに少し安心感を覚えた。
そして、筆者はそのような当代の高校生の勉強のつまずきを次のように捉えている。
いまはまた、生徒たちの学力の低さが大きな教育問題となり、父母の心配もひとかたではありません。また、いわゆる「できる」子の学力も、上級に行って必ずしも伸びず停滞したり後退することさえあります。こういう学力の低下や不安定の重要な原因になっていることは、ことばの問題があると私は思います。国語や英語だけでなく、数学ができないのも、日本語を使って正確にものを考える力が、基本のところから欠けているからなのです。
著者は国語の教員であり、国語の授業を通し、「ことばの力」が足りない生徒に対して、次のようなアプローチを提案する。
よく、「国語のような教科には正解などない」というのを耳にします。たしかに言語の持つ複雑な働き手や受け手の経験の多様さなどから、一つの表現についてもいくつかの解釈が成り立つことは事実です。しかし、そのことは、ことばの表現にたいするわがままな解釈を許すものではありません。表現のもつ正確な意味はどこまでも追求されなければなりません。それにはまた解釈者自体の豊かなことばの経験の蓄積が必要なのです。高校の学習には、そういう個性と客観性をともに高める学習が望まれるのです。