月別アーカイブ: 2006年12月

『命』

三田誠広『命』(河出書房新書 1985)を読む。
雑誌「文藝」に掲載された私生活や仕事、友人に関するエッセーを小説仕立てにまとめたものである。仕事で行き詰まったストレスやフラストレーションをモチーフにしたような作品が多く、読んでいるこちら側もストレスがついたまってしまう。
しかし、その中で「道」と題した、セクトの秘密組織の活動家の友人の死に関する話は秀逸で大変興味深かった。三田誠広氏というと学生時代の内ゲバを描いた「僕って何?」が有名であるが、私はその作品における作者の日和見的態度が気に入らなかった。学生時代は唾棄すべき作品であった。しかし、著者自身の内面には現実に身を賭して活動している学生に対する引け目が常にあり、大学を卒業して一端の作家になった当時においても、現役の活動家として社会変革を試みる友人との距離感を図ることで、自分の存在位置を確かめていたという。

それから二十年近く経ったいま、私は作家のヌイグルミを着て、文壇やマスコミを渡り歩き、(友人のセクト活動家である)小野浩介は無名の戦士として、傷つき斃れた。正直に言えば、私は小野浩介を恐れていた。(中略)なぜそれほど恐れていたのか、本当のところはよくわからないが、小野浩介のことを考えると、自分が鎧っているヌイグルミの醜さが露呈してしまいそうな気がしたのかもしれない。

私は時折、自分はなぜ自分であって、そのヒーロー(東大闘争において最後までバリケードの内側に籠り、長い裁判闘争を続ける友人)ではないのかということを考える。(中略)私はそのヒーローと、討論の席では、一人前の口をきき、対等に議論していたのだ。その議論の席で私を支えていたのは、たとえ口先だけのものであったにしても、「理想」であったり、「信念」であったりしたわけだ。その「理想」や「信念」がいまはどうなってしまったのかということもまた時折考える。あるいはまた、結果的にはそのヒーローを見捨てて逃走した他の仲間たちのことも考える。いまはふつうのサラリーマンの日常性の中に埋もれている彼らの「理想」や「信念」はどこへ行ってしまったのか。私はそのことにこだわり続けずにはいられない。そしてそのこだわりが、私の「書く」という行為を支えているのかもしれないのだ。

私はなぜここ(商業作家という立場)にいるのか。私はどこへ行こうとしているのか。よくはわからない。ただ私には書きかけの作品がある。私は書かなければならない。書いて書いて書き続けることによって、小野浩介が私に与えてくれた問い(反権力で居続けることへの不安)の答えを探さなければならない。この道の遥か先に、私の故郷がある。その道のどこかで小野浩介は命を落とした。このまままっすぐに進んでいけば、いつかその現場に辿りつく。しかし私はやがて道を折れ、自分の孤独な仕事場へ向かうだろう。そこには同じように孤独な「小野浩介」がいて、私に議論をふっかけようとして待ち構えているのだ。

ここまで読み進めて、では一体私は何との距離感でもって、今の自分の位置ベクトルを確かめているのだろうか。試験問題づくりで煮詰まっている私の頭では杳として答えは出ない。

『ブエノスアイレス午前零時』

第119回芥川賞受賞作である藤沢周『ブエノスアイレス午前零時』(河出書房新書1998)を読む。
年寄り向けのダンスホールしか目ぼしい施設がない、雪と山に囲まれた田舎ホテルで、現実の平凡な生活にくすぶる青年の心理を描く。一見フィッツジェラルドを思わせるような物語世界で、淡々とした日常の中の倦怠感を描く。しかし展開に起伏がなく最後まで読むのが苦痛であった。
むしろ併載作『屋上」の方が面白かった。丸一日デパートの狭隘な屋上で働くサラリーマンの鬱屈した感情と、それと相反するかのような広漠とした虚構世界が入り乱れ、不思議な読後感の漂う作品である。

『雪国』

川端康成『雪国』(新潮文庫 1947)を読む。
学生時代に近代文学か何かの授業のテキストとして読んだ時は、ただただつまらないとしか思わなかったが、自分自身が中年にさしかかろうとする現在、少し違った感想を持つことができた。東京に妻子のある凡庸な暮らしを送る私が、トンネルという現実と幻想の世界を繋ぐ隘路を抜けると、芸者が自分をベタボレしてくれる都合の良い世界が用意されている。文学的な価値以前の、男に都合の良い官能小説を読んでいるような心地よさが残った。