日別アーカイブ: 2002年9月1日

『日本漂流』

五木寛之『日本漂流』(文春文庫 1977)を読み返す。
確か高校時代に読んだ本なのだが、その当時どのような気持ちで読んだのだろうか。沖縄返還について高校時分の私はどのような認識にあったのだろうか、ちょっと思い出せない。先日書いたように五木氏の母親についての記述があるので少し引用したい。

私には、母親というものに対する特別な感情がない。彼女が死んだのは、ソ連軍の最初の戦闘部隊が平壌にはいってきてから間もなくのことである。その事件について、私はいつかは書くことがあるかも知れないし、また書かないままになるかも知れない。だが、私は本当は母親を思い出さなかったのではなく、昭和二十年の夏以来、母親のことを思い出すまいと無意識につとめていたのだろうと思う。
私にとって自分の原体験ともいえるぎりぎりの生きかたは、敗戦と引揚げ、そして帰国後の数年間に凝縮された時期であった。精神の形成期に通過したそれらの日々が、現在の私を作り、歪め、支配しているように思う。私にとっていま、生きるということは、そのような自分との対決であり、否定であり、そして脱出であるとも言える。

五木氏はこのような認識から当時の状況の小説化を敢えて避けているのだと述べる。この文章は1969年に文芸春秋に掲載されたものであり、現在とかなり異なっているのであろう。それについて今説明することは出来ないが、私自身のものの考え方の原点もやはり高校時代に五木氏の作品を読みふけった経験によるところが多い。これについては今度の作品も読んだ上できちんと考察してみたい。

東京新聞の記事より

短い夏休みが終わった。一昨日一泊二日で福島の方へツーリングに出掛けた。今週に入り夏の猛暑がぶり返したようで、真っ赤に腕が灼けた。おそらく明日から多忙の日々ぶ振り回され、本も読めなくなるので、この雑記の更新もまた滞りがちになるであろう。ここ最近心に去来することを思い付くままに述べてみたい。

まず、先月8月28日付けの東京新聞「五輪はオールスターで」という記事の中に、アテネ五輪強化本部長である長島茂雄氏の、全日本野球会議席上でのコメントが載っていた。
その席で長島氏は「国民が期待するところは、アテネの空で日の丸が見たいということ」と語り、五輪予選直前合宿について「ナショナリズムも浸透させていかなければいけない」と話したという。かつて「社会党が政権をとったら野球が出来ない」と語った長島氏だけに、この発言は少し危険な感じがする。サッカーワールドカップ以上に露骨な形でナショナリズムの高揚が企図されるのではないだろうか。

もう一つ野球の話題というと、大リーグのストライキの件である。日本のマスコミの大部分が経営陣側に汲みしており、イチローや野茂の活躍が見れないストライキなどもっての他だという意見がほとんどである。しかし大リーグ選手会のホームページを見るに、野球を通じた社会貢献活動といった地道な運動も行われているのに、日本での報道では大リーグ選手会は金持ちが集まった強欲な団体というレッテル張りがなされてしまっている。おそらく放映権などの問題も根底に絡んでいるのであろう。

本日の東京新聞に興味あるコラムが載った。武蔵野美術大学教授である柏木博氏の吉見俊哉編著『一九三〇年代のメディアと身体』(青弓社)を紹介したコラムを引用してみたい。

戦後、三〇年代論は、繰り返し行われてきた。日本の近代の近代性がどのようにはじまり、また、どのように屈折し問題を抱えていたのかを捉えるには、どうやら三〇年代に目を向けなければならないからだ。(中略)現在、再び三〇年代を問うとすれば、今日のシステム社会が、すでに三〇年代に準備されていたことを検討する必要がある。あらゆる意味において、経済的効率を優先するシステム社会は、確かに総力戦のシステムから屈折しながら連続していく。歴史の再検討は、つねに、新たな出来事の出現によって過去の意味を読み直す作業の連続である。

鶴見俊輔や吉本隆明らの「転向」論を多角的に現代的に捉えようとする作業は、現代日本において最も問われてくることであろう。私自身そのような目標をもって卒論を書き、高校教員になったのであるが、全く出来ていない。自分なりのペースとフィールドで上記の作業を行って行きたいと思ってみたりする今日このごろである。