月別アーカイブ: 2001年9月

「新橋通信」

救援連絡センター発行の『救援』(第389号)を読む。その中の編集後記「新橋通信」から引用してみたい。

全国の大学で自主・自治空間つぶしが強まっている。最近で言えば東京大学駒場寮への強制執行、早稲田大学での新学生会館開館に伴う既存のサークルスペースの一斉撤去などが上げられる。大学当局からすれば、もともと自分たちの目の届かないところで学生たちが自主的な活動をしていることは許せないものだった。しかし、下手に手を触れるとどうなるか分からないからとりあえず手を出さないでおこう、としてきた。それが、「もうそろそろ大丈夫だろう」と、弾圧に全面的に乗り出してきた感がある。これに対する反対運動は、一般の眼に、大学という特権的な空間での特権的な場所を守ろうというように映りがちである。これは「司法改革」に反対と言う時、弁護士の特権的な立場を守りたいからだろうという批判に似ている。どうやって運動を広げていくか、運動の側にも真価が問われている。東大や早大では、学生たちはテントを張りながらこの夏を過ごしている。興味を持たれた方は、ぜひ現場に足を運んでみてはどうだろうか。(の)

大学に置ける学生運動の一つのメルクは大学の「解放」である。ここ数年少子化の影響か、大学は講座を一般市民に「開放」する試みに懸命である。大学内で資格関連講座を開いたり、地域の公民館等で教授による教養講座が数多く開かれている。しかし全共闘運動が目指したのは、「反大学」「自主講座」であり、学問や思想の再構築をベースとして、大学を拠点として運動を「開放」していくものであった。60年安保、ベトナム反戦運動、70年安保、沖縄三里塚や人権問題等山積みな課題に対する議論や行動の集約点として大学を活用してくという発想だった。

少し乱暴な表現になるが、やはり自主自治活動空間内で取り組まれる様々な運動自体が常に社会と対峙したものであり、その運動を進めていく上で、学生は大学という権力とぶつからざるを得ず、そこから空間を守るという運動につながっていくものであるのが、本来の姿であろうか。東大や早大でのテレビ報道を見ていると、最後の「空間を守る」というところだけしか放映されないため、特権的な運動、学生のお祭り騒ぎと一般視聴者は捉えても仕方がないであろう。いくらメディアが学生に親身に運動を扱ったところで、逆にメディアの限界性が露呈していくだけのような気がする。映像というものはその被写体の他とのつながりを捨象して、短絡的に表現する。高崎経済大学での闘争を描いたドキュメンタリー『圧殺の森』という作品があるが、学生の熱心さやひた向きさは視るものの胸を打つが、議論を積み重ねていく運動自体の内実が視るものに伝わったかというと疑問符がついてしまう。特に映像という制作側の意図が加わりやすいメディアの危険性は70年前半から指摘されていたことであるが、マスコミ、権力、反権力、警察等様々な立場の人たちが映像を扱え、武器に出来る現在は特に難しいのかなと感じる。

『恍惚の人』

有吉佐和子『恍惚の人』(新潮社)を読む。
20数年前のベストセラーであるが、なかなか面白かった。単なる「老人性痴呆症」の主人公を悲哀的に描いたのではなく、嫁である昭子さんの視点を通して、耄けてしまった舅の茂造が活き活きと描かれていた。また家庭内で「耄け老人」を抱える立花家の騒動を通して、女性を家庭に縛りつける家族制度や老いを迎える中年世代のぼやき、地域社会の希薄化、3世代家族のすれ違いが丁寧にかつ楽しく描かれていた。

水道橋へ

今日の午後、大学の時の友人が経営している水道橋にある、格闘技図書館「闘道館」へ出掛けた。
数年前、極真の大会に果敢に挑戦していた頃の正道会館勢の活躍を扱った古い雑誌も置いてあって面白かった。
後楽園に出掛けた際はどうぞ。

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米国テロは今後どのような推移を経るのであろうか?

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今、テレビやラジオで、米国本土へのテロ攻撃の緊急特番が組まれている。小泉総理の声明が発表されたが、その中で「日米両国に対するテロリズム」という表現があったもようだ。これから危惧されるのは、日米安保の枠組みでの自衛隊の行動であろう。「後方支援」と「人道的援助」を中心として、中東付近で活動するのであろうが、これまでの報道を見ている限り、また小泉総理の高支持率を鑑みるに、9条をないがしろにするのは時間の問題であろう。現在様々な憶測が飛んでいるが、経済が調整期に入った米国にとって、また沖縄でごたごたしていた日本政府にとって、今後予想されうる爆撃は、「好機」になるのであろう。今何を考え、何ができるのであろうか。

『超能力は果たしてあるか』

大槻義彦『超能力は果たしてあるか』(講談社ブルーバックス)を読む。
本論の内容は主にテレビ番組での「超能力者」や「超常現象評論家」との対決を再録したものが多かったが、巻末のまとめに大槻氏の人柄が表れていて読後感がよい。少々長いが引用してみたい。

日本が敗戦を迎えたのは、私が小学生のころであった。それまで大人たちや教師たちは、「日本は、この戦争に絶対負けない。いまに必ず神風が吹く」と言っていた。しかし、日本に神の力は およばなかった。新学期になると、それまでの国語や社会の教科書は、黒い墨を塗るように指示された。それまでの日本の”神がかり教育”は否定され、破棄されたのだ。そして、若い先生は私たち生徒に向かって情熱を持って話した。「日本画戦争に負けたのは、科学の力の差だった。あの進駐軍のジープを見たか。あれが科学だ。これからはアメリカのように民主主義の社会、科学主義の社会を作っていくんだ。」と。私たちの世代は、この教えを固く守って、一心不乱に働いてきた。そして、その教えのとおり、日本には、まがりなりにも民主主義と科学文明が根づいて、今日の経済的、文化的繁栄がもたらされ、私たちの世代は、戦後の民主主義と科学主義の教育に誤りがなかったことを確信している。ところが、世紀末になるにつれて、これが少々おかしくなりだした。自民党による事実上の政権独裁が長く続き、政治的腐敗が目にあまる「民主主義社会」となった。そして、科学主義にも、一種の退廃性が、ひたひたとおし寄せている。その一つが若者たちの”理工系離れ”であり、もう一つが”オカルトブーム”である。民主主義と科学主義を信じて、この国の戦後の発展を担ってきた世代の一人として、私はこの現状に口をつぐんではいられない。しかし、私には民主主義の理想をとりもどす運動など、およびもつかない。ただし、科学文明の基礎である科学主義に挑戦する”カマキリ”のような「超能力者」たちの正体をあばき、若い人たちが科学合理的な考え方を否定することのないように努力することは、私にもできる。

確かに私など文系の人間は核開発や公害、兵器技術に対して、外野的発想からの批判しか出来ないが、科学技術の進歩に対して正しい目的を与えていくためには、幅広い問題の捉え方と連帯が求められる。