〈武道の在り方と行としての少林寺拳法〉
スポーツジャーナリズムの発展で、私が少林寺拳法を始めた十数年前に比較にならないほど、今「格闘技」が熱い。
バーリトゥードやK1などのテレビ中継に視聴者は釘付けである。空手や柔道・レスリングなどが「格闘技」というジャンルに一括されて、「男と男の熱い戦い」という看板を背負っている。KO狙いのグローブをはめた空手や、ポイントや体重判定などのルールに則った柔道・総合格闘技の試合などがその代表であろう。一昔前まで武道と名の付く大会はどこも、競技者とその関係者のみのアマチュアの大会であった。現在でも剣道がその良い例であろう。
しかしマスコミの影響で「格闘技ファン」といった観戦者が現れてから、武道の大会の性質も大きく変わっていった。よりファンに分かりやすく、ファンを納得させるような迫力のある試合へとルールを変更していった。そしていつしか道を学ぶ者までもが「選手」になり、賞金や名誉がついて回り、スポーツであるが故に、「現役」「引退」という時間が支配するようになった。
こうした「格闘技」に、特に日常生活の中で力を持て余し気味な青年男子層が情熱をもって取り組むのは大いに結構なことである。生活を懸けながら一つの物事に打ち込むということは素晴らしいことである。しかしマスコミで取り上げられるプロの世界とは無縁な大多数の人にとって、日常生活を犠牲にしてまで「武道」に費やす時間やお金はない。そのような私たちは「武道」に何をもとめ、そして「武道」は何をもたらしてくれるのだろうか。
「俺、武道やってるんだ」
「えっ。K1とか目指してるの?」
といった会話が交わされてしまう現在、もう一度プロではない大多数の私たちにとって、「武道」の原点を再確認していく必要があるだろう。
「武」と云う字は、戈と止むの二字よりなる会意文字である。「説文解字」の中に、武は撫なり、止戈なり、禍乱を鎮撫するなり、禍乱を平定して人道の本に復せしめ、敵を愛撫統一することが、武の本義なりと説いている。故に、真の武道と云うものは、人を生かして我も生き、人を立て我も立てられると云う、自他共楽を理想とする道を云っているのである。
(教範「武の意義と武道の本質」より)
教範にもある通り、「武」とは元来争いを止める技術であり、「道」とは「人の行なうべきこと」を表わす、漸漸修学の人間完成への過程である。よって「武道」の本来の姿は争いを止める技術を通して、単に技術や体力の向上だけではなく、長年通して人間的な成長を促していくものなのである。
ではここでいう「人間的な成長」とは何を意味するのであろうか。一言で定義付けを行なうのはいささか乱暴な議論であろう。しかし最低限言えることは、我々が生活しているこの社会は多くの人間で構成されており、社会の中で生きていくには、自分の欲望を抑えることが必要であるということであろう。あらゆる礼儀や挨拶といった作法、そして物事の判断や行動はこの個人と社会の相関関係に位置づけられる。
事実を自分の欲望から出た期待通りにすることは絶対に不可能なことであるから、その欲望を征服し、欲望を浄化させることが正しい解釈法であると、教えるのが釈尊の正統仏経である。
(教範「正しい釈尊の教え」)
またこのことは同時に社会をより良い方向に変えていくには一人の人間の力ではどうしようもなく、多くの人間との幅広い連帯を創っていかねばならないことを示唆している。こうした社会に規定された個人、そして個人の集合に規定された社会の関係を学んでいくことが、「人間的な成長」という議論に対する解答の糸口であろう。
それではこの人間の構成たる社会を少し眺めてみよう。戦後から六〇年近くが経過し、現在の日本は一定成熟した「民主主義社会」だと言われて久しい。貧困や飢えは表面上は一掃され、識字率も100%近く、国民全てが成熟社会の恩恵を受けていると捉える者も多いであろう。しかし、先日の小泉総理の靖国神社参拝などに見られるように、未だに日本政府・日本人戦争の問題を置き去りにしてきている。A級戦犯が合祀されている靖国神社を参拝する総理大臣を支持するものが大多数を占めるのだ。アジアとりわけ韓国や中国・台湾といった隣国への配慮はそこにはない。加えて近年日米安保の強化を狙うガイドラインの改定や沖縄の駐留米軍基地の整備・拡張、有事法制の研究等、日本は二度と進んではいけない戦争への道を再び進んでいる。
また「精神障害者」への法的な差別や「ホームレス」に対する行政の人権を無視した嫌がらせなど、「民主主義」という名のものに施行される差別が現存するのも事実である。
このような差別構造や平和を脅かす状況に対して是非とも声を挙げていかねばならない。それはたとえ一人でも自分の立場性の中から出来る範囲で行動していくことが大切である。しかし一人一人の人間は弱く、また人の一生も短い。たった一人の力で社会は変わらない。「半ばは自らの幸せを、半ばは他人幸せを」考えることの出来る人間と連帯を求めて行くことが必須だ。そのためにも社会状況・他人の幸せを考え合わせることの出来る人間を一人でも多く作っていくことが大切である。 少林寺拳法は本来金剛禅運動として出発した。現在は戦争の悲惨な記憶も風化し、少林寺を巡る環境も大きく変わってきている。しかし二度と戦争を起こしてはいけない、戦争にいたる状況を止めるために行動できる人間の育成を求めてこの金剛禅運動はある。現在の社会にいつも鋭い視線を持ち、社会の構成員たる人間は一人で生きているのではなく、生かされているものであるとの出発点に立つものでなくてはならない。
武道の在り方を巡って、武道団体の数だけ様々な主張があろう。しかし武道は相手を自らの手で痛み付けるという直接的な体験を契機としている。その峻烈な自他の在り様の確認作業こそが武道の原点である。自らの幸せが他人の幸せにつながっていくような人間と人間の関係、他人の不幸が自らの不幸になってしまうような関係の築き方を学ぶことに武道の現代的な意味が求められる。少林寺拳法における行とはまさにこうした武道を追い求めていく運動に他ならない。
〈日常生活の中で金剛禅の教えをどのように実践するか〉
昨今少年犯罪が相次ぎ、マスコミを賑わすことが多いが、なかなか解決策が見いだせない。少年犯罪や非行を防ぐにはまず第一に家庭であり、学校、そして地域社会の連携が不可欠である。しかし、それぞれに機能不全を起こしているといっても良い。警察や学校は「なるべく仕事を増やしたくない症候群」にかかっており、本来の業務に支障を来す問題に介入してこない。教員や警察官の試験が難しくなり、いわゆるエリート公務員が増えたためか、地道な生徒指導・地域での補導といった取り組みが手薄になりがちである。また家庭では「個性を伸ばす」ための自主尊重といった名目で子供に対して不干渉、自由放任がまかりとおり、親子の会話の不足に陥っている。また地域社会における連帯感はますます希薄なものになり、自治会の形骸化も行き着くところまで行った感すらある。
そのような現代日本の状況に対して、二〇〇一年四月二十三日付の東京新聞の社説を一部を引用したい。
母親は男の子が思春期の年頃になりますと、扱いに戸惑うこともあるでしょう。自分の体験からのアドバイスができないからです。父親の出番です。ところが、都会生活では、職業にもよるけれど父と子の接触密度は濃くありません。学校の男の先生との連携も、時間の制約で期待できません。昔の農・漁村で、年上の子が年下の子を体験的に教育する機能を持っていた、あの「村の青年団」とか「若衆宿」のような仕組みの現代版が、地域社会の中でつくれないものかと思います。
この論説委員の意見にもある通り、今必要なのは学校の授業や家庭ではなしえない「体験的な教育」ではないか。お年寄りが高校生や大学生の手を取って教える、また中学生が幼稚園児の道着の袖を掴みながら指導する、また半身不随の者が、人生経験を交えながら小学生と手を取り合うといった年齢を越えた触れ合いが大切だ。
現在の硬直化した教育制度の中で、子供たちは物心ついた時から同年代としか遊ばないため、歳上の歳下の人との触れ合いの「場」が少ない。現在やれ「ゆとり教育」だの「総合的学習」だの教育改革も騒がしいが、どれも子供たちを年齢で区切った学年という単位の中でしか行なわれない。「教員−生徒」という固定化した関係性が、学級崩壊を生み、子供自身がいつまでも「生徒」という受動的な立場に固定化されてしまい、教育の崩壊を誘発している状況に解決策が出されていない。
インターネットや携帯電話の普及で、ますます身体的な接触が希薄になる世の中である。学校現場でも教員が生徒の体に触れただけで「体罰・セクハラ」と言われますます形だけの進学教育がはびこってきている。いくら心の触れ合いが大切だと文部科学省やマスコミが喧伝したところで、実際の体の触れ合いのないところで、心の触れ合いはない。
金剛禅と云うのは、生きている人間が、拳禅一如の修業をつみ、不屈の精神力と金剛身を養成し、まず己をよりどころとするに足る自己を確立し、そして他の為に役立つ人間になろうという、心身一如・自他共楽の新しい道であり、人間同志の拝み合い援け合いにより確立し、現世に於て平和で豊かな、理想境を建設せんとする教えである。
(教範「金剛禅の主張と願い」より)
拳士である私たち自身が、少林寺拳法を老若男女が楽しめる技術だと一面的な捉え方をしがちであるが、本来金剛禅として少林寺を考えたとき、老若男女が行なえる技術としてではなく、老若男女が触れ会える「場」の獲得と考えることが出来るのではないか。かつて全共闘運動が華やかりし頃、「権力を持たない者は空間を持つことが出来る」というスローガンでもってバリケード封鎖を支援したものがいたが、今の拳士である私たちに求められているのは、それぞれの立場性の中での、「禅共闘運動」ではないか。社会全体が合理化・希薄化していく中で、老若男女が楽しめる身体的接触の場を求めるということは難しいことである。
私自身高校教員という立場性の中での「禅共闘運動」は生徒を「生徒」という立場から解放し、真に一人の人間として向き合い、心の成長を促していくことだと考える。