大槻義彦『超能力は果たしてあるか』(講談社ブルーバックス)を読む。
本論の内容は主にテレビ番組での「超能力者」や「超常現象評論家」との対決を再録したものが多かったが、巻末のまとめに大槻氏の人柄が表れていて読後感がよい。少々長いが引用してみたい。
日本が敗戦を迎えたのは、私が小学生のころであった。それまで大人たちや教師たちは、「日本は、この戦争に絶対負けない。いまに必ず神風が吹く」と言っていた。しかし、日本に神の力は およばなかった。新学期になると、それまでの国語や社会の教科書は、黒い墨を塗るように指示された。それまでの日本の”神がかり教育”は否定され、破棄されたのだ。そして、若い先生は私たち生徒に向かって情熱を持って話した。「日本画戦争に負けたのは、科学の力の差だった。あの進駐軍のジープを見たか。あれが科学だ。これからはアメリカのように民主主義の社会、科学主義の社会を作っていくんだ。」と。私たちの世代は、この教えを固く守って、一心不乱に働いてきた。そして、その教えのとおり、日本には、まがりなりにも民主主義と科学文明が根づいて、今日の経済的、文化的繁栄がもたらされ、私たちの世代は、戦後の民主主義と科学主義の教育に誤りがなかったことを確信している。ところが、世紀末になるにつれて、これが少々おかしくなりだした。自民党による事実上の政権独裁が長く続き、政治的腐敗が目にあまる「民主主義社会」となった。そして、科学主義にも、一種の退廃性が、ひたひたとおし寄せている。その一つが若者たちの”理工系離れ”であり、もう一つが”オカルトブーム”である。民主主義と科学主義を信じて、この国の戦後の発展を担ってきた世代の一人として、私はこの現状に口をつぐんではいられない。しかし、私には民主主義の理想をとりもどす運動など、およびもつかない。ただし、科学文明の基礎である科学主義に挑戦する”カマキリ”のような「超能力者」たちの正体をあばき、若い人たちが科学合理的な考え方を否定することのないように努力することは、私にもできる。
確かに私など文系の人間は核開発や公害、兵器技術に対して、外野的発想からの批判しか出来ないが、科学技術の進歩に対して正しい目的を与えていくためには、幅広い問題の捉え方と連帯が求められる。