月別アーカイブ: 2001年7月

本日の夕刊から

栃木県の下都賀地区の教科書採択協議会が扶桑社発行の「新しい歴史教科書」を採択する方針を固めたことに関して、栃木県教職員組合が同県教育委員会に申し入れ書を提出した。これは同教委が教科書選定の際に役立つように作成した資料において、学習指導要領の目標に明記された「国際協調の精神を養う」という観点が対象外とされていた問題の理由を質すというものだ。実際に下都賀地区教科書採択協議会が「新しい歴史教科書」を採択した背景に、「国際協調」の観点がなかったことが有利に働いたという指摘もあるという。

私はこの記事を読むに、議論の方向性はさておいて、議論自体のあり方は正しいことだと考える。かつての家永教科書裁判において眼目のひとつに、教科書を国が決めるのではなく、地域で議論しながら採択をしようということが挙げられていた。確かにまだ検定制度は悪しき形で残っているが、しかしこのように地域レベルで教科書の採択を巡ってもめるというのは10年前に比べ民主的だと考える。

扶桑社の「新しい歴史教科書」を実際に手にしてみたが、神話の話や人物にスポットを当てた記述スタイルは中学生にとって確かに「読みやすい」ものだと思う。扶桑社の教科書の内容如何は個人的には賛同しかねるが、問われるべきは国・地域・教育現場レベルでの歴史観を巡る真摯な運動である。逆に考えれば、平和憲法の歴史的な成立過程、差別・抑圧の構造的理解、闘争から生まれた労働者・女性・児童の人権確立など、教科書の暗記に埋没しない活きた歴史教育が盛り込まれた教科書を、そして教科書運動を創っていけるチャンスだと思うのだ。
韓国の金大中大統領は日本との民間レベルでの交流も凍結する考えをもっているようだが、これを否定的に捉えずに、歴史認識の共同化の第一歩とする取り組みが問われるだろう。

尹健次『もっと知ろう朝鮮』(岩波ジュニア新書)の最後に次の一節がある。

しかしそのためには植民地支配、そして分断をよぎなくされた朝鮮半島の歴史をふりかえり、とりわけ日本・日本人にとっての朝鮮・朝鮮人の意味を問うことが不可欠ではないでしょうか。そこから、若い人たちが、「過去の清算」のために「戦後責任」という思想をしっかりと身につけていくとき、日本人と朝鮮人がともに生きていく道が大きく開かれていくはずです。それはまた、この地球上のすべての人たちが共生・共存していく道にも、確実につながっていくはずです。「ともに生きる」とは「ともに闘う」ことなのです。

『トンデモ世紀末の大暴露本』

と学会著『トンデモ世紀末の大暴露本』(イーハトーブ出版)を読む。
早稲田にあった「たま出版」の本が評価されていた。最近「普通でない」ものを嗤うことを意図した雑誌やテレビ番組が多いが、行き過ぎは怖いなと思う。情報化社会と呼ばれる中、価値観の多様化が言われるが、これは同時にちょっとひねくれた視点で物事を見れば、様々なものが自らの価値観・フィーリングに合わないということで、嗤いになってしまうのだ。

上記の点は現在の日本語における形容詞に単純化に置き換えて考えることができるのではないか。平安時代の貴族の日本語の形容詞はまさに多種多様である。快・不快の表現一つとっても様々な言葉がある。例えば「不快である」という表現は、中古の言葉では「うし・うたて・うとまし・うるさし・わづらはし・からし・むつかし・こころづきなし・こころぐるし…」と何語も思い浮かぶ。しかし現在の若者の話し言葉で同意の表現というと「うざい・きもい…」と中古に比べかなり少なくなっていると考える。このことは自分達と「ちがう」ものに対してあからさまな排除を決め込んでしまう態度に依拠しているのではないだろうか。価値観・生活のちがうものを十把一絡げにカテゴライズしてしまう傾向は人間には少なからず誰しもあるものだが、この傾向が年々ひどくなってきている。いわゆる「ホームレス」問題、在日外国人問題、「障害」者問題を考えていく上で、我々の使っている日本語の形容詞にもっと深い配慮が必要となってくるのではないか。

今日は久しぶりにバイクでツーリングに出かけた。栃木の山奥の林道からさらに山深く入っていった。日中ずっと走っていたので、思いっきり腕が灼けた。先日ホームページ作成ソフトであるアドビのゴーライブ5.0を買ったので、ツーリングレポートを作ろうと思うのだが、説明書を読みこなすだけで骨の折れる作業である。

『犬神家の一族』

横溝正史『犬神家の一族』(角川文庫)を読む。
横溝正史の作品において、金田一耕介は昭和20〜30年代の日本の封建的な家族制度のありよう、村社会的な人間関係が、犯罪の温床になっていることを鋭く指摘する。この『犬神家の一族』の作品においても連続犯罪の原因のひとつに、登場人物の同性愛を隠そうとするあまり、複雑に絡んでしまった恩義・愛情関係の問題がある。

横溝作品をあえて深読みするならば、金田一耕介の活躍は連続殺人などの凶悪な事件の表象だけに囚われてしまう一般的な人間に対する警句ととることができないだろうか。そして金田一は犯罪の陰に隠れてしまうマイノリティーの問題や差別・抑圧の構造から問題を解き明かしていく。するならば読者である我々は作品舞台中に表出する凶悪犯罪にただ戦きを感じるのではなく、その社会背景に切り込んでいく金田一の視点から学ばなくてはならないのではないか。

今週号の週間金曜日(No.369)の読者欄に次のような意見が寄せられている。少し長いが引用しよう。

(大阪池田市の小学生殺傷事件において、容疑者が「精神障害」を抱えているのではという報道を受けて)誤解を承知であえて言えば、人間社会である限り、そういった人を生み出すことは阻止できず、我々はそういった悲劇とも共存するしかないのではなかろうか。「なんとシニカル。親の気持ちになったことがありますか?」という類いの親の反論は予想できる。では、そうつめ寄る人たちに聞いてみよう。あなたは、ユーゴスラビア空爆の時に死んでいった子供たちのために空爆反対を叫びましたか? 餓死や内戦、エイズで理不尽に死んでいく子どもたちのために何かしましたか?

最近特に「可哀想」という感情論ですべてが押し切られている気がする。問題なのはその「可哀想」の先にあるものである。おそらくそこで目指されているものは、障害者も社会の「不適合者」も、その他あらゆるマイノリティーの不在の社会なのだろう。

だが社会に対する「不適合者」を排除すれば問題が解決するような考えは、幻想である。それに、その実現を願う発想は、マイノリティーは可哀想、もっと言えば、ああはなりたくない、といった本音の陰画であるのではなかろうか。これは偽善である。

こうした差別抑圧の問題に一定の理解を示した顔をして逃げてしまう、覆い隠してしまう日本人の態度が、横溝作品の背景にあり、そして今現在も変わらずに横たわっている。