日別アーカイブ: 2001年3月7日

小論文

最近の本屋で高校生向けの小論文の参考書を探してみると、樋口何とかという先生の徹底的にマニュアル化された小論文必勝法とかいった本が並んでいる。この著者の本はどれを読んでも同じで、小論文の原則は「起承転結」にあり、規定字数の一割で導入部「起」を書き、「承」の部分で課題文・正論・一般論を述べ、「転」の部分で自分の意見を展開し、「結」の部分で簡単なまとめを行うというものだ。入試における脱正答主義や推薦入試の増加に伴い、この本の考え方のマニュアルに縛られてしまう受験生もまた増えている。しかもそういう受験生に限ってマニュアル本に沿って論を述べているにも関わらず、アメリカの自由な教育に比べ、日本の教育には個性がないだの、日本人は付和雷同型で主体性がないだの、非常にマニュアル化された意見を書きたがる。

資本主義の拡充に伴う物事の記号化、情報化社会における選択の意味論を述べるのもいいが、そこから先を展開できる主体的考察が今の若者には必要である。現在の社会には差別や抑圧、戦争、資本主義の破綻等々多くの問題を抱えている。また人間は孤立感、劣等感など様々な悩みを抱えて生きている。そしてそうした社会と自己の関係性を積極的に変えていくことに真の結論があるということを教える論文教育が必要であろう。個別に社会論、人間論を述べたのでは結論は非常に限界のあるものになってしまう。と、かく言う私もついついマニュアルに頼ってしまう。そこで今月からZ会の会員になった。このようにインターネットへの書き込みをいい加減にやっていると、文章もいい加減になってしまう。やはり、定期的に自分の文章を添削してもらうことは幾つになっても大切なことだ。

『ソフトウェアの話」

黒川利明『ソフトウェアの話」(岩波新書 1992)を読んだ。
プログラミング言語の歴史を簡単に紹介し、それに強引な結論を加えただけの読みにくい内容だった。その結論を引用してみたい。

 それは「プログラミングの美学」といものである。日本においては、日常生活の文化の中に一種の美学を見出すのが常である。茶道もそうなら、和歌や俳句といったものもそうであろう。一昔前は庭を含めた建築もそのようなものであった。
 プログラミングが単に日本の産業を担うだけでなく、日本の文化の中でささやかな地位を占めるとしたらそれは「美しいプログラミング」というものによってではないかと、私は思っている。
 そのような「プログラミングの美学」が同時に「プログラマの論理学」につながれば、ある種の「プログラミングにおける武士道」のようなものが実現できるのではないだろうか。

上記のようないい加減な結論は本論の内容にほとんど関係がない。そもそも日本の技術関係の本の最後には「結局扱うのは人間だから最後はアナログ的な感性が必要になってくる」といったまとまりのない結論が入ってくることが多いが、日本の文化水準の貧困さがかいま見られるよい象徴だ。いまだにアナログとデジタル、ロゴスとパトス、人工と自然といった対立項に物事を当てはめ、その二項の調和に結論を求めるといった短絡的な考察スタイルから脱する必要があるだろう。