学習・学び」カテゴリーアーカイブ

真の学校

今「20世紀の名言」というメールマガジンをとっている。明日に始業式を控え、ここしばらく、魅力ある授業をどう作ればよいのかと考えていた。○×式の受験テクニックではない、「答えのない授業」について考えてみたが、どうもこれといった結論が出ない。そのような悶々とした中で、今日配信されたメールの名言は印象的だった。

教師の側から知識を授けるよりもまず知識を
もとめる動機を子どもたちがもつような学校が、真の学校である。
デューイ (アメリカの哲学者)

言われてみれば当たり前のことであるが、現場で具体的にどう実践していくかというのは難しい。短期的には子供たちの興味を引き伸ばしていく授業は出来ても、それを継続していくことは教員の側の負担も大きい。国語教育においても、本に書かれている事柄を解説することは簡単だが、では子供たちに読書の面白さを伝えるにはどうすればよいのだろうか。はたと考え込んでしまう。先日の公明党による「こども読書推進法案」のように法案を作るのは簡単だが、インターネットや携帯電話がすっかり普及した現在、多少の忍耐力を要する読書に目を向けさせることは難しい。むしろ教科書会社からもらう「指導書」に沿って一方的に授業展開する方がよっぽど手が抜けてよい。そもそもそうした授業に馴らされた、自分の意のままに動き、飲み込みが早く、かつ反論をしない生徒が教員にとって一番楽なのだ。意図しないような反応、意に沿わない答えを持ってくる生徒は教員にとってうとましい存在になる。読書一つを巡っても、まさに教員の側の度量が問われるであろう。

初めての卒業式

先日担任としての初めての卒業式が終わって、その夜鬼怒川温泉に出掛けた。周辺は植林杉に囲まれており、花粉症がよりひどくなったようだ。昨日から頭痛めいたものが抜けない。卒業式が終わったにも関わらず、送りだしたという感慨はまだない。今日も生徒が卒業した教室を清掃しながら、また明日からホームルームが行われるような気がしてならない。来月新入生を迎えてから実感が湧いてくるのだろうか。

成長と教育

技術の話で思い出したが、先日永六輔のラジオ番組で埼玉の行田にできるものつくり大学の話が出てきた。ものつくり大学はKSDの問題とセットで報じられたのでマイナスイメージが付きまとうが、建学の理念である、手を使って何かを作り出すことの大切さを伝えたいというメッセージは耳に残った。最近の高校生の憧れる職業の上位に大工や花屋が入っているが、ここ三十年程軽視されてきた手を使って材料を組み立てて一からものをつくるという極めて現実的な作業が、彼らには新鮮に映るのだろう。手を使って何かをつくる作業に没頭するという経験が、子供が自然と離れ、そしてテレビゲームが家庭に入ってきて希薄なものになっている。

昨年の全教の全国大会の議論の中で、教育の根幹は、「子供に自己肯定観と達成感を与えることだ」とあったが、まさに手を使っての作業にこそ、今後の教育の理念が隠されているのではないだろうか。竹馬や竹とんぼや花飾りを作ったり、プラモデルやジオラマを集中して作り、それを周りが理解するという当たり前のことが忘れ去られて久しい。翻って考えてみて現在の教育でそのような「つくる」という感覚をどれだけ重視しているだろうか。「新しい歴史」までつくる必要はないが、各教科、教科外教育の中でで頭よりも手を使うことの大切さを教えていくことが求められるだろう。

小論文

最近の本屋で高校生向けの小論文の参考書を探してみると、樋口何とかという先生の徹底的にマニュアル化された小論文必勝法とかいった本が並んでいる。この著者の本はどれを読んでも同じで、小論文の原則は「起承転結」にあり、規定字数の一割で導入部「起」を書き、「承」の部分で課題文・正論・一般論を述べ、「転」の部分で自分の意見を展開し、「結」の部分で簡単なまとめを行うというものだ。入試における脱正答主義や推薦入試の増加に伴い、この本の考え方のマニュアルに縛られてしまう受験生もまた増えている。しかもそういう受験生に限ってマニュアル本に沿って論を述べているにも関わらず、アメリカの自由な教育に比べ、日本の教育には個性がないだの、日本人は付和雷同型で主体性がないだの、非常にマニュアル化された意見を書きたがる。

資本主義の拡充に伴う物事の記号化、情報化社会における選択の意味論を述べるのもいいが、そこから先を展開できる主体的考察が今の若者には必要である。現在の社会には差別や抑圧、戦争、資本主義の破綻等々多くの問題を抱えている。また人間は孤立感、劣等感など様々な悩みを抱えて生きている。そしてそうした社会と自己の関係性を積極的に変えていくことに真の結論があるということを教える論文教育が必要であろう。個別に社会論、人間論を述べたのでは結論は非常に限界のあるものになってしまう。と、かく言う私もついついマニュアルに頼ってしまう。そこで今月からZ会の会員になった。このようにインターネットへの書き込みをいい加減にやっていると、文章もいい加減になってしまう。やはり、定期的に自分の文章を添削してもらうことは幾つになっても大切なことだ。