テレビ」カテゴリーアーカイブ

Kー1

昨日の夜フジテレビでKー1を観た。
試合自体はまあ面白かった。数年前に無敵を誇ったモーリススミスをピーターアーツは破った訳だが、そのピーターアーツもここへ来てかなり研究され尽くした感がある。ピーターアーツは左のジャブを出したら右のロー、右のストレートを出したら左のミドルといったコンビネーションの巧みさと圧力に持ち味があったのだが、そのリズムが相手に読まれている。ちょうど3年くらい前に極真で前蹴りで決まった試合があったが、それに状況は似ている。
しかしどうもKー1のテレビ演出には嫌悪感を感じる。昨日もイギリス出身のキックボクサーを「大英帝国の不沈艦」と称していた。それに向かうのが日本人の「武蔵」であるのだから、何をか言わんである。Kー1の主催者である正道会館のバックには暴力団が絡んでいるという記事が月刊誌「噂の真相」に暴露されていたがその影響もあるのだろうか。空手(極真)対キックボクシングという演出はそのまま枢軸国対連合国を彷彿させ る。

「アルチメットルール」

昨日パンクラスの船木とヒクソングレイシーの試合をテレビで観た。
大方予想通りの展開だった。
しかしヒクソンの船木をテイクダウンさせる首を引っかける攻撃はうまかった。
しかしアルティメットルールでの試合もテレビ中継されて未経験者の
ファンが出てきたのを見るにつけ何かしらの違和感はぬぐえない。

それにしても解説者の視点はなかなか良かった。これからは大道塾の
時代がやってくるのか!?


00/05/29 1:15:19 ジュリアーノ
はじめまして
突然のカキコ失礼します。
船木とヒクソンの試合をテレビでご覧になったのですか。
わたしも見たかったけれども、見られませんでした。友人がグレーシー柔術をやっていて、現場から携帯に結果報告を受けましたが・・・。
それはそうと、ここはどういうページなのでしょうか。
武道を検索していたら「一言お願いします」ででてましたけど。
私のパソコン画面を開いてみましたがあまりの凄さに閉じてしまいました。うーん、謎です。
それでは


00/05/29 20:29:39 主催者
腕ひしぎは怖いね
書き込みどうもありがとう。
「武道」でこのページが検索されるのですか。初めて知りました。

先刻肘にあまりに無理が来ているので病院に行った。
幸い骨に問題はなく、間接の袋が少し伸びているということだった。
先月”逆天秤”をかけられて、それ以来10年前の痛みがよみがえってきた。
10年前におかしくした際も”外巻天秤”が変なところにかかったためだ。

現在3年生の小論文を添削しているが、アメリカの教育制度と比べて、
「個性を認める教育が大切だ」と結論をまとめたありきたりのつまら
ない小論文が多かった。「個性」を主張する論に限って個性がない。


「村上龍“失われた10年”を問う」

現在NHKテレビを見ながらこの文章を書いている。「NHKスペシャル:村上龍“失われた10年”を問う」という番組だ。
1985年のプラザ合意以降のバブル経済の検証であるが、少々視点が狭い気がする。1980年代後半から2000年の現在までを振り返るには、中曽根政治の内実そのものを問い直す視点が不可欠である。中曽根が「臨調ー臨教審」路線の新自由主義の種を蒔き、竹下が水をやり、橋本が芽を育て、小渕、森政権で開花させんとしている。そこに位置づけられる教育、労働、金融、社会保障、家族制度、情報通信各分野における「規制緩和」政策を総合的に振り返らなくては全てが中途半端な考察に終わってしまい、「規制緩和」をしていない政治、行政にその矛先を向けていくような議論が展開できない。

ニュースステーション

先程テレビ朝日のニュースステーションを見た。久米宏は見た目かなり変わっていた。本日の特集はカルト宗教の問題だった。浅見定雄氏が出演していた。そこで浅見氏はカルト宗教問題は神経が敏感な他人の問題としてではなく、誰しも、勿論自分の身にも起こる問題として提起していた。大切な視点である。カルトに限らず、すべての社会問題を自らの問題として背負っていく主体を認識できる生徒を育てていきたいものである。そのために何をすればよいのか。何が出来るのか。

徒然なるままに

先程テレビのニュースで元旦に富士に向かう暴走族と警察の攻防が映し出された。アナウンサーのコメントも市民生活を乱す側の暴走族と守る側の警察という構図に基づくものであった。しかしどう見ても、警察とマスコミの臭い芝居に見えて仕方がない。今や恒例となった警察24時何とかという番組も同様であるが、警察の宣伝番組に過ぎない。しかもそのような「社会を守る警察」という宣伝が、日常において警察を行き過ぎを肯定するという効果を生んでいる。
私も今年の元旦に富士に向かったが、途中で車を停められ、免許証の提示を求められた。また深夜の自転車の登録確認や、プライバシーを聞く尋問も日常茶飯事になった。95年のオウム事件以降、とみに警察の活躍を助長するムードが形成されたが、それから5年経ってみて、改めてその変化の大きさに驚く。
2000年-ミレニアムムードで明るい未来を語るのもいいが、90年代の真摯な総括の方は忘れ去られていないだろうか。2000年になったから1900年代が終わったわけではない。何か区切りを設けて、その区切り以前のことを不問に付すというのは日本人の悪い癖だ。50年前にも、「終戦」という区切りを設けて、戦前を問い直すことのなく、戦争責任を曖昧にしてきた過去を私たちはもっている。
ミレニアムムードの落とし穴にもそろそろ気付くべきではないか。2000年になったからといって昨年のガイドライン問題に終止符を打ってはいけない。1900年代が終わったからといって過去100年の戦争の傷跡を忘れてよいものではない。2000年になったからといって先月の多くの社会問題を終わりにしてはいけない。
私は95年に1年近く読売と朝日の両紙を読んでいたが、その時に両紙の違いが一番顕著だったのが、特集記事の組み方であった。朝日は過去50年を振り返るという特集を組み、読売は戦後50年を越えてというものであった。今や全マスコミがヨミウリ化してしまっている。
とにかく過去の嫌なことを忘れて年越しを迎える(忘年会などの行事に顕れている)日本人ムードには常に懐疑的な視点を忘れてはならない。

余談だが、これではまだ皇紀の方が、いつでも天皇制の問題を国民が忘れないという点で良いのではないか。2000年問題にしろ、その影に元号の煩わしさとイデオロギー性の問題点が覆い隠されてしまっている。日本がほとんど西暦に移行したかのごとくマスコミは報じているが、2000年問題があまり影響なかったのは元号の問題に深く足を突っ込んでいるからだという指摘はなかった。