先程テレビのニュースで元旦に富士に向かう暴走族と警察の攻防が映し出された。アナウンサーのコメントも市民生活を乱す側の暴走族と守る側の警察という構図に基づくものであった。しかしどう見ても、警察とマスコミの臭い芝居に見えて仕方がない。今や恒例となった警察24時何とかという番組も同様であるが、警察の宣伝番組に過ぎない。しかもそのような「社会を守る警察」という宣伝が、日常において警察を行き過ぎを肯定するという効果を生んでいる。
私も今年の元旦に富士に向かったが、途中で車を停められ、免許証の提示を求められた。また深夜の自転車の登録確認や、プライバシーを聞く尋問も日常茶飯事になった。95年のオウム事件以降、とみに警察の活躍を助長するムードが形成されたが、それから5年経ってみて、改めてその変化の大きさに驚く。
2000年-ミレニアムムードで明るい未来を語るのもいいが、90年代の真摯な総括の方は忘れ去られていないだろうか。2000年になったから1900年代が終わったわけではない。何か区切りを設けて、その区切り以前のことを不問に付すというのは日本人の悪い癖だ。50年前にも、「終戦」という区切りを設けて、戦前を問い直すことのなく、戦争責任を曖昧にしてきた過去を私たちはもっている。
ミレニアムムードの落とし穴にもそろそろ気付くべきではないか。2000年になったからといって昨年のガイドライン問題に終止符を打ってはいけない。1900年代が終わったからといって過去100年の戦争の傷跡を忘れてよいものではない。2000年になったからといって先月の多くの社会問題を終わりにしてはいけない。
私は95年に1年近く読売と朝日の両紙を読んでいたが、その時に両紙の違いが一番顕著だったのが、特集記事の組み方であった。朝日は過去50年を振り返るという特集を組み、読売は戦後50年を越えてというものであった。今や全マスコミがヨミウリ化してしまっている。
とにかく過去の嫌なことを忘れて年越しを迎える(忘年会などの行事に顕れている)日本人ムードには常に懐疑的な視点を忘れてはならない。
余談だが、これではまだ皇紀の方が、いつでも天皇制の問題を国民が忘れないという点で良いのではないか。2000年問題にしろ、その影に元号の煩わしさとイデオロギー性の問題点が覆い隠されてしまっている。日本がほとんど西暦に移行したかのごとくマスコミは報じているが、2000年問題があまり影響なかったのは元号の問題に深く足を突っ込んでいるからだという指摘はなかった。