最近日産のフェアレディZのテレビCMを目にする。
スカイラインGT-Rやスープラとは違った本物のスポーツカーという雰囲気のCMであり、好感が持てる。特に子どもがミニカーで遊んでいるシーンが挿入されるのがよい。過去はよく知らないが、やっと日本にもランボルギーニのような憧れを持つ車が登場したのかと感懐を持って眺めている。Zというローマ字は個人的にはあまり好きではないが、一生のうちに一回は、いわゆるスポーツカーでサーキットをぶっとばしてみたいものである。
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「未来への教室」
午前中NHK教育テレビで「未来への教室」という番組を見た。
ゼロックスパロアルト研究所のアラン・ケイ博士が子供たちに未来のパソコンの姿を語るというものだった。マックを使っているものにはおなじみだが、アラン・ケイがパロアルト研究所で提唱したダイナブックの思想に着目したのがスティーブジョブズである。彼はパソコンというものを人間の思考形態の延長と考えている。単なる計算機やインターネットに接続できる機械としてではなく、自分の頭の中でしか展開できなかった思考の過程を他人に説明できるものだと定義している。もちろん人間の思考内容は文字に限らず、図形や、音楽、動画などさまざまある。これまでのマルチメディアパソコンなるものは人間の表現領域に属する、テキストや図形ファイル、音楽ファイル、動画ファイルの全てが扱えるというものであった。しかしアラン・ケイは今「スクイーク」というOSを開発しているが、彼はそもそもの人間の思考領域の具現化を目的とした。私たちの子供時分には、物事を考えていく際、「ここがこうだから、これはこうして、こうしよう」と頭の中で思考のボックスを上下左右に動かしていたが、ちょうど子供の頃の頭の中を見るような画面である。専門用語でこれらのGUIをひっくるめてオブジェクト指向と呼ぶが、マックOSのはるか先を行っている。私たち大人はテキストベースで物事を理解しがちであるが、芸術家や子供の方が彼の目指す「メタメディア」のパソコンをうまく使いこなすことが出来そうだ。彼は自著の論文の中で次のように述べている。
コンピュータは,他のいかなるメディアー物理的には存在しえないメディアですら 、ダイナミックにシュミレートできるメディアなのである。さまざまな道具として振る舞う事が出来るが、コンピュータそれ自体は道具ではない。コンピュータは最初のメタメディアであり、したがって、かつて見た事もない、そしていまだほとんど研究されていない、表現と描写の自由を持っている。それ以上に重要なのは、これは楽しいものであり、したがって、本質的にやるだけの価値があるものだということだ。
だらだらとテレビ
今晩は疲れが抜けずに一日だらだらする時間が長かった。夜はずっとTBSの「関口宏の東京フレンドパーク」を見ていた。和田アキ子と彼女の親しい友人たちが出場していた。和田アキ子の友人として松村邦洋や高田純次、池谷幸雄、島崎和歌子らが出ているは納得だったが、島田紳助が出ているのは意外だった。二人の掛け合いを見ながら、昔日テレの「トップテン」の司会者を二人でやってたなあと思い出して合点がいった。
「東京〜」の後は「タイムショック」をぼんやり眺めていた。あの番組は雑学教養クイズの妙、有名芸能人の真剣な表情という面白さ以外に、出身の高校、大学という要素がかみ合ってくるので人気を博しているのであろう。東大、京大、早大、立大、熊大…と芸能人の出身もさまざまである。母校もしくは思い入れのある学校を出ている芸能人を応援したくなる気持ちは理解できるが、数年前のフジテレビの「平成教育委員会」にも多数出演していた定番の「高学歴芸能人」は少々新鮮味が欠けるのではないか。
メルセデスベンツのCMを見て
ここしばらくテレビでも新聞でも鈴木宗男衆院議員の公共事業を巡る疑惑で持ち切りである。「ムネオハウス」や「鈴木踏切」といったテレビ向きの分かりやすいキーワードと、典型的な温情派土建屋的体質は、マスコミにとっても扱いやすく、叩きやすい対象なのであろう。
現在メルセデスベンツのCMがテレビで放映されている。裸の男がひたすら暗やみを走りぬけるものだ。そして「思想が生み出すもの メルセデスベンツ」というテロップが入る。
メルセデス社はダイムラーとベンツとポルシェという3人の技術者が共同で設立した会社だったはずだ。1930年代ナチスの台頭に合わせ、メルセデス社はナチスに協力的な立場をとるようになった。そのためナチスに反対だったポルシェはイタリアに逃れたということだ。その後メルセデス社はナチスとの癒着を深めていく。ベンツの車体に据え付けられるスリーポイントマークは空・海・陸を制するものとして制定され、メルセデスがヒットラーの御用車を作っていたのは有名な話である。
するならばこのCMのキャッチコピーはいかがなものだろうか。ちなみにメルセデスとはダイムラー博士の娘の名前から取られている。
『反乱のボヤージュ』
今日は、テレビ朝日のドラマ『反乱のボヤージュ』(野沢尚原作・脚本)を観た。
おそらく1996〜98年当時の駒場寮廃寮闘争を描いたものであろうが、いささか失望する内容であった。「全共闘運動」を「父親探し」と位置付け、若者の反乱する力を暖かく見守る「父親的視座」の欠如を訴えるというものであった。寮の内部の落書きや食堂から重機が攻め込んでくる設定など私自身「懐かしい」と感じるものもあったが、今求められる自治寮の意義や展望について全く触れられていなかった。原作がどのような視点で書かれているのか分からないが、テレビを見る限り、30代以下の大半の視聴者は主旨を理解できなかったであろう。